やほほ村

思ったことを書くよ

文学が果たすことのできる役割

こんな話がある。

文学の危機というテーマを貰って、実際にはそれは何を指しているのか、改めて考えてみた。文芸書が売れなくなった、書店がどんどん減ってゆく。電車の中では誰もがスマホタブレットを見ていて、たまに本らしきものを開いていれば実用書の類ばかり。
しかしこれは日本における商業的な文芸出版の衰退の姿ではあっても文学の危機ではないだろう。本が手頃な娯楽だった時期があり、国民の教養指向のおかげで文学全集が着実に売れた時期があった。そういうものは社会の変化に応じて盛期もあれば凋落の時期もある。

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究極の文学の危機とは絶対的な独裁政権のもとで文学が、刊行も販売も読書も、すべて禁じられているという状況である。

池澤夏樹「文学の危機、なのか?」『思想』2019年11月号 危機の文学 | web岩波

権力のよる文学の禁止がその「究極」の危機であるとすれば、文学が教育過程の一選択肢へと追いやられうる今日の状況はまあまあの危機であると言えるのかもしれない。

2022年4月から高校の国語教育が変わる。新学習指導要領にのっとって、文学よりも実用的文章を重視する傾向が強まるのだ。この問題に、「江戸時代への逆戻り」「他者の気持ちがわからない人が育つ」と怒りの声を上げるのは、文献学者、山口謠司・大東文化大学教授だ。

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これまであった2年次からの「現代文」は、実社会で役立つに文章に特化した「論理国語」と、小説・詩を扱う「文学国語」という新しい選択科目に解体されます。問題は、大学入試を見すえて、多くの高校が「論理国語」を選択することです。これにより、多くの生徒が文学作品に触れることなく卒業する事態となります。

4月に変わる「高校国語」に学者から怒りの声 「人の気持ちがわからない子が育つ“改悪”」〈dot.〉(AERA dot.) - Yahoo!ニュース

とまあ、こんな話があるが、ここで述べられている「他者の気持ちがわからない人が育つ」とはどういうことだろうか。

もう少し読んで見るとこう書いてある。

――文学に触れないことで、ほかにどんな弊害が生まれますか。

「自分の範疇を超えた他者の気持ちがわからない人」に育つに違いありません。

小学校のころに国語の教科書に載っていた新美南吉の「ごんぎつね」や「手ぶくろを買いに」を思い出してください。その人物の気持ちになって考えよう、と授業で習いましたよね。文学は、感情や情緒にかかわる教育も含んでいるのです。

4月に変わる「高校国語」に学者から怒りの声 「人の気持ちがわからない子が育つ“改悪”」〈dot.〉(AERA dot.) - Yahoo!ニュース

文学を題材にすることでなぜ「その人物の気持ちになって考えよう」などという設問が可能になるのかというと、それは文学が誰かの言葉を使って誰かの生き方/世界を追体験させるものだからであろう

文学作品は読者の想像が及ばない世界を非日常の言葉で綴り表現することで、そこに生きる人々の人生を読者に追体験させ、読者と作品内の世界に生きる人々との橋渡しをすることができる存在だ。

そして、言葉にしがたい想像を超える体験だからこそ、逆説的に聞こえるかもしれませんが、それを広く共有してもらうために、文学が重要な役割を果たしうるのです。例えば大量虐殺を生き延びたユダヤ人たちは証言を数多く残していますが、いまだに読まれ続けているのは、プリーモ・レーヴィの作品など、文学的な作品と呼びうるようものです。想像を絶する体験っていうのは、そのまま言葉にすると読めないんですよ。つまり人間的な意味の世界を否定するような、非合理・非理性の極限体験を、きちんと意味のある論理的で明晰な言語で表現するのは非常に困難なんです。ありのままに書こうとすれば、あまりにも生々しくなったり、支離滅裂になったりして、多くの人に共有されにくい。

もちろん他者の苦悩や痛みを商品にすることはよくないことです。そのような意図はあってはならない。でも「文学の役割」は、他者の言語にできないような体験を、フィクションまたは文学的言語という形をとって、より多くの人が共有しうるものに変えることだと思うんです。例えば、ルワンダの虐殺の時も生き残った人たちが証言を残しています。しかし人はたやすく忘却します。その忘却に抵抗するという観点からは、文学的な形式には大きな意味があると思います。難民について書かれた文学作品としては、賛否両論ありますけれど、デイヴ・エガーズというアメリカ人作家の『What is the What』という小説があります。南スーダンでとても強烈な経験をして、アメリカに難民としてやってきた男性を知り合いになったエガーズは、彼から聞いた話にもとづいて、その男性が自らの体験を語るという形式の小説を書いたのです。それを読んで僕は衝撃を受けました。

小野正嗣さん「移民や難民と一緒に『新しい美しさ』を作り出していくべきだ」 芥川賞作家が語る | ハフポスト

文学作品をひらけば、登場人物に共感したりしなかったり、描かれる出来事を受け入れられたり受け入れられなかったり、どのような形であれ、作品で描かれている世界と対話することを強いられる。そのとき私たちは語られている世界を追体験しているのである。そしてそこは多くの場合、私たちが普段生活する世界とは全く別の場所だ。

そこには読者の論理は存在しない。そこにはその世界の固有の論理がある。それを伝えるために文学は非日常の言葉、読者にとっての他者の言葉で綴られる。

先程の引用はノンフィクションを想定して語られたものであるが、言われていることはフィクションであれノンフィクションであれ同じである。文学は私たちに他者の言葉で他者の人生を強制する。

そしてそのような強制は、この世界の片隅に追いやられてしまった、周縁で見えなくされてしまった誰かの人生を浮かび上がらせる契機になりえる 

パンデミック下の心中旅行が描かれます。「不謹慎と言われるかもしれない」と思いませんでしたか?

金原:何を言っても不謹慎だとされる雰囲気だったからこそ、小説で書くべきだと思いました。一個人の意見として「コロナなんかよりももっと重要なこと、もっと絶望的なことがある」とは言いづらかった。私自身、そういう意見は口にしませんでした。(外出するべきじゃないなど)大きな声をあげている人たちは、ある側面から見れば間違っているわけじゃない。でも、そういうロジックが通用しない世界に生きている人たちのことを潰していいわけじゃないと感じました

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小説というのは、間違っていることを正しい言葉で語る側面があると思うんです。これから先は誰が排除されていくのか。たとえば、老害と切り捨てられてみんなに嫌われる高齢者男性、警察に突き出されるような痴漢かもしれません。そういう人は誰からも共感を得られず容赦無く袋叩きにあうようになっていく。でも小説というのはある程度、誰からも共感されず、みんなから「死ね」と思われるような人たちのためにあると思っています。

「テクノブレイク」では、最後のほうで主人公がゴキブリに自分を投影するシーンがあります。「どんなに命の平等が叫ばれても、ゴキブリは別枠だ。汚くて、気持ち悪いからだ」と。みんなから嫌悪されて、排除を望まれる人たちがいる。私はそういうゴキブリとしての言葉を書き残していきたいんです

金原ひとみ 文学でしか救済できない領域はどこにできていくのか|Real Sound|リアルサウンド ブック

例えば最近話題の「ツイッター文学」とやらは、誰かの(ありえるかもしれない)人生を描き、この2022年という極めて具体的な現在に存在しうる他者への想像力を働かせてくれる。

そこで描かれる生き方はたいてい、SNSで叩かれる傾向のあるものだ。自分の「背丈」に見合わないとされる相手を求めて婚活に明け暮れるだの、他人のinstagramに嫉妬し虚栄心から散財するだの。そのような生き方、叩かれやすく、ある意味周縁に追いやられている生き方を私に強制させる。それはそのような人生のあり方に思いを馳せさせる契機となる。

インターネットという場所にはコピペだの体験談だの、いろいろな『文学』が提出されてきたが大抵2ちゃんねるだったり、2ちゃんねるで流行った個人ブログであったり、なかなか大きな話題にはならない。一方で「ツイッター文学」はすぐにバイラルする。

他者への豊かな想像力が育まれることになればいいのだけど、実際には他者の生き方に否定的な人間がシニカルな描写に喜んでRTするだけだという側面もあるように思う。文学が役割を果たすかどうかは、読む人間の姿勢にも依っているのだと思う。