やほほ村

思ったことを書くよ

拾ったクリティークを読む ボードリヤールK(論題: 銃規制)

銃規制論題におけるボードリヤールのKを紹介してみようと思います。

 

そこで、せっかくなのでタグを付けて「拾ったクリティークを読む」企画に参加してみます!(参加者第一号なので、企画開始者も兼ねてみています!)

今回は企画のルール通り、ルールと補足を冒頭に掲載してみます。

 

この企画について

ルール

  • 誰でも参加できる
  • 内容は自由
  • 記事やツイートにハッシュタグ「#拾ったクリティークを読む」をつけて参加する
  • 参加時は企画のルールと補足を掲載、もしくはリンクなどで参照可能な状態にする
  • ルールの改変および違反は常に許可されている

補足

何を書けばいいかわからず困るという人は、下記の目次が推奨される

  • 今回の筆者のトピック知識のレベル
  • 原稿へのリンクおよび入手方法
  • [クリティークの主題がここに入る]って何/誰
  • どんな議論が書かれているか
  • 感想や得たインスピレーション

 

では今回の記事の目次です!ぜひ興味があるところだけでも読んでください👶

今回の筆者のトピック知識のレベル

自分は興味があってちょっと調べたり読んでみたりしたことがあるくらいです!

ボードリヤールの本を読んでいるとこの曲のこと思い出しちゃう。

このPVはソファーが動いているんじゃなくて壁が動いているんですよ。

 

まあ要するにたぶん全然わかんないこととかあるのですが、もうガンガンスキップしたり無自覚なウソ書いちゃったりするので興味があればぜひ各自で調べてください!

おれ内容に責任持たないよ!

 

原稿の入手先

baudrillard kritik debate filetype:docx

とかしてたら出てきました。作者不明。いちおう直リンク貼っときます。

https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwj69Mfs0Mv7AhXHm1YBHRCWDCYQFnoECA4QAQ&url=https%3A%2F%2Fcircuitdebater.org%2Fw%2Findex.php%2Ffile%2Fview%2FTOC%2520Baudrillard%2520K.docx%2F586441859%2FTOC%2520Baudrillard%2520K.docx&usg=AOvVaw1oX-3LfJjClrhxeDKHBxHo

作者などわからない以上これワンチャン死ぬほどいい加減に作られたKの可能性がある*1のですが、まあなんかアイデアがもらえたらいいなくらいのつもりで読んでいってみましょう👶

ちなみにボードリヤールK自体は、アメリカのディベーターに「好きなクリティークは」って聞いて「ボードリヤールK」と答えられ、なんか原稿までもらったことがあるくらいにメジャーなクリティークみたいです。redditにもスレあったよ。

 

ボードリヤールって誰

色々調べた結果、おれのイメージの中のボードリヤール(ハイパーリアルのボードリヤール)が言ったことを列挙してみます。

  • 「みんなホントのことを知らないままイメージで物を語ってるし、もう世界にはたぶんイメージしか存在してないぞ!?」
    • ボードリヤールは資本主義とか消費社会のこともそういう目で見ている。マルクスは「商品の価値って労働(時間)じゃね」って言ってたけど、ボードリヤールはあんまりそう思っていないんだろうね(おそらく死ぬほど参考文献あった)
  • 「インターネットとかで調べたら何でも知れる(知ったような気になれる)から、もう世界にはたぶん秘密とか存在していない。ぜんぶスケスケで「透明 transparent」乙。」
  • 湾岸戦争は起こらなかったです。誰がなんと言おうと、起こってないです」
  • 「資本主義みたいな、イメージのやりとりって加速させ続ければ壊れると思う」
  • アメリカってディズニーランドやねん(ディズニーランドがアメリカなのではなく!)」
  • フーコーの言ってることおかしくね?」

まあこんな、世界で一番いい加減な説明を真に受けてほしくはないので、ネット上に溢れかえっているボードリヤール解説でも読んでみてください👶

あと、さっきも言った下記のことを思い出してください。

まあ要するにたぶん全然わかんないこととかあるのですが、もうガンガンスキップしたり無自覚なウソ書いちゃったりするので興味があればぜひ各自で調べてください!

おれ内容に責任持たないよ!

 

どんな議論が書かれているか

ここからは、引用されている資料は読まれていそうな部分から更に大事なところだけ抜き出した形で紹介します(長すぎるから!)。
ちなみに、向こうの原稿では資料は中略部分も含めて全部掲載されています。読まない部分はフォントサイズを8とかめちゃ小さくするのが慣例です

今回読む原稿のスクショ

 

前提

さてさて、読んでいる限り論題は「米国政府は銃を規制するべきである」っぽい*2、そして否定側から出すクリティークみたいです。

つまり「銃を規制するとか言ってる肯定側は150%間違っちゃってます」って言うための議論です。

 

overviewを読んでみる

さっそく原稿を上から読んでいこうと言いたいところですが、ここはぐっとこらえましょう。

アメリカのkritikの原稿にはoverviewというセクションがたまにあります。これは2NCとか1NRでKの全体像を説明するための原稿なのですが、これがある場合はそこに最初に目を通すとめちゃ見通しが良くなります。

なんと今回はoverviewがあるのでそこを先に読んでみましょう。

It is my last national circuit tournament and I refuse to play the fiat game. The aff’s moralistic discourse on guns creates an us/them dichotomy—that causes irrational debates which present real suffering as weapons to win political capital or in this case, a ballot – that’s Klemash and Baudrillard. In the process we mark objects as evil through selective histories which distracts us from the social issues that create suffering which turns case – that’s Katovich and Wieting. The aff models gridlocked politics devoid of meaning and then expects us to fiat the aff. This is unhealthy and stops us from understanding why the aff wouldn’t happen in the real world, the alternative is my act is radical nihilism – a rejection of the terms of the question altogether – that’s Baudrillard. To vote for the critique is to recognize the lack of practical knowledge in our practices and to stand in solidarity against this hegemonic system of norms.  

(めんどくさいのでdeepl訳ほぼそのまま貼ります)

これは私の最後の国内サーキットトーナメントであり、私はフィアットゲームをプレイすることを拒否します。銃に関する肯定側の道徳的な言説は、我々と彼らという二項対立を生み出し、現実の苦しみを政治資金のため、または今回の場合のように投票に勝つために提示するような非理性的な論争を引き起こします。その過程で、私たちは選択的な歴史を通して、対象を悪としてマークし、そのことが、事件となる苦しみを生み出す社会問題から私たちの目をそらすのです。肯定側は、意味のない閉塞した政治をモデル化し、そして、私たちが肯定側の提案を実行することを期待しています。これは不健全であり、まさにその肯定側の提案が現実の世界では起こらない理由を理解できなくしてしまいます。オルタナティブは、私がやった行為そのものです。つまりラディカルなニヒリズム、質問の条件を完全に拒否することです - これはまさにボードリヤールの資料で言っていることです。この批判行為に投票することは、私たちの実践における実践的知識の欠如を認識し、この覇権的な規範のシステムに対して連帯するということなのです。 

うお〜なんかめちゃ難しいこと言っていますね。前半のあたりでポイントになりそうなことを抜き出しつつ読んでいきます。

 

私はフィアットゲームをプレイすることを拒否します

向こうの言い回しでよくあるのですが、「フィアットはクソ」とか「フィアットは捨てろ」とかは要するに「試合の中の議論をもう一度現実世界とちゃんと結びつけて考えようよ」ってことです。ここでも、ディベートを現実世界と積極的につなげたいってことなんでしょう。もちろんどうやってつなげるかがポイントになるわけです👶

 

銃に関する肯定側の道徳的な言説は、我々と彼らという二項対立を生み出し

道徳的な言説が分断を生み出しているのでしょうか?

 

現実の苦しみを政治資金のため、または今回の場合のように投票に勝つために提示するような非理性的な論争を引き起こします

たしかに社会問題は、見方によっては、政治家がお金を得るために利用されているとも言えます。温暖化とか貧困とか色々言えば(動機はどうあれ)何かをやるためのお金がもらえますよね。

そして、ディベートにおいても肯定側は勝つために社会問題を引用していると解釈することができます。それはまあ、ディベートがゲームである以上は原理的に否定しえないことでしょう。

ここでは、それって真に問題を解決しようとしていないよねくらいの意味で「非理性的」と言ってるのかな?

 

その過程で、私たちは選択的な歴史を通して、対象を悪としてマークし、そのことが、事件となる苦しみを生み出す社会問題から私たちの目をそらす

おぉ〜なんだかこれはむずいですね。さすがにわからない度合いがやばいので、後でこの部分に対応した資料を読んでみましょう

 

さて、ここまでで述べたことをまとめると、肯定側は、とりあえず試合に勝つためだけに、分断を生み出す言葉を使って、深刻な社会問題を描写してみて、(なんでかはわからないけど)実際の苦しみを生み出す根本原因から目をそらし続けているわけです。

そして、これは「意味のない閉塞した政治」なんだと否定側は続けます。

肯定側は、意味のない閉塞した政治をモデル化し、そして、私たちが肯定側の提案を実行することを期待しています。これは不健全であり、なぜ、まさにその肯定側の提案が現実の世界では起こらないのかを理解できなくしてしまいます

「意味のない閉塞した政治」をやりながら、試合の中ではプランが実行されたらメリットが〜とか言って「肯定側の提案を実行することを期待してい」るけど、そんなことしてたらディベートは永遠に「その肯定側の提案が現実の世界では起こらない理由を理解できな」いんだってことなんでしょうね。

現実の世界で銃規制が実現しない理由から目をそむけさせる議論というのは、まあ否定側からしたら百害あって一利なしということで、だから今回の否定側は「フィアットゲームを拒絶する」のだろうと思われます。

 

クリティークはメリットやデメリットのように政策シミュレーション(=このプランをやったらどんなことが起きるかという議論)に収まるものもあれば、収まらないものもありますが、今回は収まらない方のパターンっぽいですね。

 

さて、では代わりにどうしたらいいと否定側は言っているのでしょう。

オルタナティブは、私がやった行為そのものです。つまりラディカルなニヒリズム、質問の条件を完全に拒否することです - これはまさにボードリヤールの資料で言っていることです。この批判行為に投票することは、私たちの実践における実践的知識の欠如を認識し、この覇権的な規範のシステムに対して連帯するということなのです。 

いやこれはエグいですね。もうわけわかんないです。

まじでわからないので、正直に、分からなさすぎる自分が何をどう調べてみたか書いておきます。

 

まず、なんかたしかニヒリズムってのはめちゃ要するに「もう全部だめじゃん!無駄じゃん!あーもうやめたやめた。おれはもう全部やめますよ」みたいなことだった気がします(あんま知らないからウソ八百な気もする)。

今回の否定側からの指摘は「とりあえず試合に勝つためだけに、分断を生み出す言葉を使って、深刻な社会問題を描写してみて、(なんでかはわからないけど)実際の苦しみを生み出す根本原因から目をそらし続けている」ってことだけど、こんなこと言い出したら、もうディベートを諦めないといけない感がちょっとありますよね。

だって否定側はこんなこと言っちゃった以上、もう社会問題とか試合内で説明できないっすよね多分。いやまあ色々理屈こねたらできるのかもしれないけど、相性は悪そう。

そういう意味でニヒリスティックなalternativeになるのかな。

 

そんでボードリヤールニヒリズムについて拙いリサーチで補ってみます。

色々調べていると、こんなサイトがありました。

Was Baudrillard A Nihilist? – International Journal of Baudrillard Studies

googleのサイト翻訳とかにぶちこんで読んでみると、、、

 

いややっぱり全然よくわからないです。さすがに付け焼き刃じゃきついので、色々ボードリヤールを掘ってみて出直しましょう!

というわけで、今回はクリティークのalternativeはわからないままになりますが許してください。

 

overviewをおさらいできたので、ちょっとだけ本編も読んでみましょう。

 

shellっぽいところ(メイン的なところ)

1NCで読むっぽいところとその和訳を1つずつ貼り付けていきます👶

クレームと資料の大事そうなとこだけ貼るにとどめますので、さっきのoverviewを踏まえて各自で解釈していってください!!!(説明書くの面倒になっちゃった)

 

まず1枚目。

Fiat is illusory, at the end of the round the aff doesn’t happen because it never will in the country of the 2nd amendment, however they have done a good job at mirroring the political stasis that halts the notion of real change that makes fiat practical. The aff’s invocation of moral rhetoric to justify a handgun ban creates an us/them dichotomy—they’ve created a moral boundary between themselves and their opposition.

Klemash in 13

However, with the renewed focus on gun control issues in politics, neither the proponents for nor the opponents to more gun control seem willing to budge, and in fact seem to be behaving more stubbornly than ever. A massacre of so many young children at the hands of a heavily armed gunman rallied the sympathies of the nation, but neither side was moved to alter their core position. This deadlock suggests that despite the issue is at hand, the political rhetoric regarding gun control unlikely to change no matter what tragedy occurs. Indeed, on both sides of the debate, the moral language used indicates that moderates and extremists are even more entrenched in their views than ever. .... The question as to whether or not there needs to be more gun control is no doubt significant, yet one of the most interesting aspects of the contemporary debate is the use of moral rhetoric by both sides to support their own views as well as how they employ this language to demoralize the position of their opponents. Starting with the press conference where the results of the month-long commission were announced, the gun control debate has been shrouded in the political rhetoric of morality. There the Vice President said America has a “moral obligation” to act, and President Obama followed by saying that Congress and the government had a responsibility to prevent “evil” acts and furthermore that Americans have an “obligation” to do so in any way possible. While this instance was neither the first nor the most incendiary use of morality in the current gun control debate, the prolific nature of the press conference and the stature of the two men make the language that they did use very weighty. Moreover, invoking morality essentially means that a distinction is being drawn between what is good and what is bad or evil. In other words, moral language serves as a dichotomous political tool for separating the morally “right” camp from the morally “wrong” camp in this debate. ...... moral language itself rarely finds its way into the text of specific laws. However, the language of rights implies morality, and particularly in America, where rights are enshrined in the Constitution as the highest law of the land, and thus public moral support for the law as a “good” social structure is evidenced simply by observing the legal, executive, and justice systems. To call or imply that an argument is immoral is to imply that the argument is not right, not a right, and not lawful. In the press conference following Sandy Hook, both the President and Vice President used language of morals to describe the future action they desire, thereby creating a moral boundary between their ideas and any opposition. In addition to their moral language, the use of the word “obligation” is an extraordinarily strong language selection, for its use implies that anyone who does not feel they are obligated to act in such a way are not moral (or at least do not have the same morals as the speaker), which creates a “us” and “them” mentality in listeners.

(deeplそのまま和訳(クレームだけは分かりづらかったのでかなり意訳入れています))

フィアットは幻想だ。憲法修正第2条をもつこの国では、試合が終わったあとの現実世界において肯定側の提案するプランは決して採られない。しかし、肯定側はフィアットという概念が実用的になっているその状況、つまり真の変化が絶対に起こらない政治停滞的な現実の社会の状況、そこにおいて何が起きているかを実際に示してくれた。つまり、肯定側は拳銃禁止を正当化するために道徳的なレトリックを持ち出して、我々と彼らという二項対立を生み出してしまっているのだ。

 Klemash 2013

しかし、政治の世界では銃規制問題が再びクローズアップされ、銃規制強化の賛成派も反対派も譲らず、むしろこれまで以上に頑強に振舞っているように見える。重装備のガンマンの手によって多くの幼い子供たちが虐殺され、国民の同情が集まったが、どちらの側も自分たちの核となる立場を変えようとはしなかった。このような行き詰まりは、問題が目前にあるにもかかわらず、銃規制に関する政治的レトリックが、どのような悲劇が起ころうとも変わりそうにないことを示唆している。実際、議論の両側で使われる道徳的な言葉は、穏健派と過激派がこれまで以上に自分の意見に固執していることを示している。.... 銃規制を強化する必要があるかどうかという問題は、間違いなく重要である。しかし、現代の議論で最も興味深い点は、両者が自らの意見を支持するために道徳的なレトリックを用いるとともに、この言葉を用いて反対派の立場を萎縮させることである。ヶ月に及ぶ委員会の結果が発表された記者会見から始まって、銃規制の議論は道徳という政治的レトリックに覆われてきた。そこで副大統領は、アメリカには行動する「道徳的義務」があると言い、オバマ大統領はそれに続いて、議会と政府には「悪」行為を防ぐ責任があり、さらにアメリカ人にはどんな形であれその「義務」があると言った。この例は、現在の銃規制の議論において道徳を用いた最初でもなければ、最も扇情的なものでもないが、記者会見の多用性と二人の身分の高さから、彼らが用いた言葉は非常に重みのあるものとなっている。さらに、道徳を持ち出すということは、本質的に、何が善で何が悪か、あるいは悪であるかという区別がなされることを意味する。言い換えれば、道徳的な言葉は、この議論において、道徳的に「正しい」陣営と道徳的に「間違っている」陣営とを分けるための二項対立的な政治的ツールとして機能するのである。......道徳的な言葉そのものが、具体的な法律の条文になることはほとんどない。しかし、権利の言葉は道徳性を含意し、特にアメリカでは、権利が国の最高法規として憲法に明記されているため、法律、行政、司法制度を観察するだけで、「良い」社会構造としての法律に対する国民の道徳的支持が証明されるのである。ある議論を不道徳だと言ったり、ほのめかしたりすることは、その議論が正しくない、権利ではない、合法ではない、とほのめかすことである。サンディフック事件後の記者会見で、大統領も副大統領も、自分たちが望む未来の行動を表現するのに道徳的な言葉を使い、それによって自分たちの考えとあらゆる反対意見の間に道徳的な境界を作ったのである。なぜなら、そのような行動をとる義務があると感じない者は道徳的ではない(あるいは、少なくとも発言者と同じ道徳観を持っていない)ということを意味し、聞き手に「我々」と「彼ら」のメンタリティを作り出すからである。

このクレームめちゃくちゃ面白くないですか。再掲しちゃいます。

Fiat is illusory, at the end of the round the aff doesn’t happen because it never will in the country of the 2nd amendment, however they have done a good job at mirroring the political stasis that halts the notion of real change that makes fiat practical. The aff’s invocation of moral rhetoric to justify a handgun ban creates an us/them dichotomy—they’ve created a moral boundary between themselves and their opposition.

フィアットは幻想だ。憲法修正第2条をもつこの国では、試合が終わったあとの現実世界において肯定側の提案するプランは決して採られない。しかし、肯定側はフィアットという概念が実用的になっているその状況、つまり真の変化が絶対に起こらない政治停滞的な現実の社会の状況、そこにおいて何が起きているかを実際に示してくれた。つまり、肯定側は拳銃禁止を正当化するために道徳的なレトリックを持ち出して、我々と彼らという二項対立を生み出してしまっているのだ。

試合が終わってもプランは実行されない、という意味でフィアットはある種幻想なんだと言うのはクリティークの平常運転ですね。

でも、もう一歩踏み込んで、ディベートがそんな幻想を使う羽目になっているのはなんでなのかと考えさせてくるクレームです。

それは現実の社会で肯定側のプランが実行されない状況があるからなんですよね。で、それってやばい状況なんじゃないのと。

つまり、肯定側のプランを本当に正しいものだと信じている人からすると、フィアットを使わないとディベートできない社会って、まじでやばいんだっていうトーンのクレームです。例えば死刑制度はまじであったらやばいと思っている人からすると、フィアットとかいう仕組みを使ったディベートにおいて死刑制度が取り扱われるのって、いまの社会は狂っていることの証明でしかないんですよね。ディベートはで扱われる時点で、とうぶん導入されないだろうことが見込まれているわけです。

"they have done a good job at mirroring the political stasis that halts the notion of real change that makes fiat practical."という言い回しはそのあたりをすごく皮肉っていておしゃれです。

 

2枚目いきましょう。

The images of suffering they present are like a drug, used by the media and politicians to advance their ends. They present these images to you in exchange for the ballot for their own moralistic satisfaction, but this constant search for new catastrophes to “solve” can only end in domination and violence. 
Baudrillard in 94 

One might almost say, contrary to the Marxist analysis, that material exploitation is only there to extract that spiritual raw material that is the misery of peoples, which serves as psychological nourishment for the rich countries and media nourishment for our daily lives. .... Other people's destitution becomes our adventure playground. Thus, the humanitarian offensive aimed at the Kurds - a show of repentance on the part of the Western powers after allowing Saddam Hussein to crush them - is in reality merely the second phase of the war, a phase in which charitable intervention finishes off the work of extermination. We are the consumers of the ever delightful spectacle of poverty and catastrophe, and of the moving spectacle of our own efforts to alleviate it (which, in fact, merely function to secure the conditions of reproduction of the catastrophe market) .... Artificial catastrophes, like the beneficial aspects of civilization, progress much more quickly than natural ones. The underdeveloped are still at the primary stage of the natural, unforeseeable catastrophe. We are already at the second stage, that of the manufactured catastrophe - imminent and foreseeable - and we shall soon be at that of the pre-programmed catastrophe, the catastrophe of the third kind, deliberate and experimental. And, paradoxically, it is our pursuit of the means for averting natural catastrophe - the unpredictable form of destiny - which will take us there. Because it is unable to escape it, humanity will pretend to be the author of its destiny. Because it cannot accept being confronted with an end which is uncertain or governed by fate, it will prefer to stage its own death as a species. 

(deepl和訳)

彼らが提示する苦しみのイメージは麻薬のようなもので、メディアや政治家が自分たちの目的を進めるために利用しているものに変わりない。彼らは、自分たちの道徳的満足のために、バロット(ジャッジの投票)と引き換えにこれらのイメージを提示するが、「解決」対象としての新たな惨事を常に探し続けるこのやり方は、支配と暴力に終わるだけである。

ボードリヤール 94

マルクス主義の分析とは逆に、物質的な搾取は、人々の不幸という精神的な原料を抽出するためにのみ存在し、それは豊かな国々にとっては心理的な栄養となり、私たちの日常生活にとってはメディアの栄養になると言えるかもしれない。.... 他人の困窮は我々の冒険の場となる。このように、クルド人に向けられた人道的攻撃は、サダム・フセインクルド人を潰すことを許した西側諸国の悔恨の表れであるが、実際には戦争の第二段階、つまり慈善的介入によって絶滅の仕事を終わらせる段階に過ぎないのである。私たちは、貧困と大災害といういつまでも楽しい光景の消費者であり、それを軽減するための私たち自身の努力(実際には、大災害市場の再生産の条件を確保するために機能しているにすぎない)という感動的な光景の消費者である.........。人工的な大災害は、文明の有益な側面と同様に、自然のものよりもはるかに速く進展する。未開発の人々は,まだ自然の,予見できない大災害の第一段階にいる.私たちはすでに第二段階、つまり差し迫った、予見可能な製造された大災害の段階にあり、まもなく、あらかじめプログラムされた大災害、つまり意図的、実験的な第三の種類の大災害の段階に入るだろう。そして、逆説的だが、自然のカタストロフィ-運命の予測不可能な形-を回避するための手段を追求することが、私たちをそこに連れて行くことになる。運命から逃れられないからこそ、人類は運命の創造者のふりをする。不確かな、あるいは運命に支配された結末に直面することを受け入れることができないから、人類は種としての自らの死を演出することを好むようになるのだ。 

ちょっと調べてみると、ボードリヤールってdisaster pornとかcatastroph pornの文脈でこういうこと言ってるみたいですね。

 

3枚目いってみましょう。これさっきわからないなあってしちゃった議論ですが、こうして読んでみると、けっこう面白い議論です。

Marking handguns as evil mirrors the way we have marked drugs as evil. These associations do not actually help solve evil instead politics uses them to eschew human responsibility for evil and pave over deeper social antagonisms. This creates a hyperreal where actors compete for who gets to revise history at the expense of the truth.
Katovich and Wieting in 2000

However, with increasing attention to the dangers of guns and with the generation of indexical expressions that associate dangers with implied objective pasts, guns may become equally “useful” correlates with evil as are drugs. At least in reference to our earlier definition of evil, allowing for the unimpeded possession of guns and for their use may become an unacceptable vocabulary of motive as incidences of gun-related violence become more noticeable. .... Our conception of evil is tied intimately to the way that an object in and of itself becomes viewed as a danger to human rights and our expectations of what constitutes a good life. A syringe full of heroin implies both a past destruction and a foreboding threat to future users. The “evil” objects themselves seem to cause future events, independent of human agency (see Reese and Katovich 1989). Heroin epidemics will cause future suicides. Addictive drugs will cause pathological interactions. On the other hand, objects seen as potentially contributing to a social good become defined as meaningful only in conjunction with human agency. Guns can bring about destruction, but only when put “in the wrong hands.” Otherwise, they contribute to justice, security, and protection of private property. Defining objects as evil involves a web of cultural ideologies and contradictions. Guns and drugs are not merely social objects but represent cultural events that have their roots in conventional and deviant practices.

拳銃を悪とするのは、私たちが麻薬を悪としたのと同じことです。このような関連付けは、実際には悪の解決には役立たない。むしろ政治は、悪に対する人間の責任を回避し、より深い社会的対立に道を開くために、このような関連付けを利用する。これは、役者が真実を犠牲にして誰が歴史を修正するかを競い合う超現実を作り出す。

2000年、カトヴィッチとヴィーティング

しかし、銃の危険性への関心が高まり、危険性を暗黙のうちに客観的な過去と結びつける指標的表現が生まれると、銃は麻薬と同様に悪との「有用な」相関関係を持つようになるかもしれない。少なくとも、先に述べた悪の定義に照らし合わせると、銃に関連する暴力の発生がより顕著になるにつれ、銃の無制限な所持とその使用を認めることは、動機の語彙として受け入れがたいものになっていくかもしれない。.... 私たちの悪の概念は、ある対象がそれ自体、人権や、何が良い生活を構成するかという私たちの期待に対する危険と見なされるようになる方法と密接に結びついている。ヘロインの入った注射器は、過去の破壊と未来の使用者に対する不吉な脅威の両方を意味する。「悪」の対象そのものが、人間の行為とは無関係に、未来の出来事を引き起こすように見えるのである(Reese and Katovich 1989参照)。ヘロインの流行は将来の自殺の原因となる。中毒性のある薬物は病的な相互作用を引き起こすだろう。他方、社会的善に貢献する可能性があると見なされる対象は、人間の行為と結びついた場合にのみ意味を持つものとして定義されるようになる。銃は破壊をもたらすが、それは "間違った手に "渡ったときだけである。そうでなければ、銃は正義や安全、私有財産の保護に貢献する。物体を悪と定義することは、文化的イデオロギーと矛盾の網を含んでいる。銃や麻薬は単なる社会的対象ではなく、従来の慣習や逸脱した慣習に根ざした文化的事象を表している。

なにか物質を象徴的に悪と結びつけてしまうことで、人間がそれを使って何をするかやその責任が問いづらくなるみたいな議論です。そして、それはより社会的対立を深めるだけなんだと。

これはたしかになあという気も個人的にはします。大麻とか酒とか銃とか、これ悪いものだから!ってなっちゃうと議論がしづらくなっていっちゃうんですよね多分。

 

では4枚目。alternativeですが、なかなか難しいです。またこんど出直しですね。

The alternative is the radical nihilistic challenge of my speech act. Our blind adherence to fiat and poor political representation as a community has drained debate of meaning. There is no connection between what we do here and the political, only the refusal to participate in the fiat game can bring us closer to meaning.

Baudrillard in 81

Analysis is itself perhaps the decisive element of the immense process of the freezing over of meaning. .... The masses themselves are caught up in a gigantic process of inertia through acceleration. They are this excrescent, devouring, process that annihilates all growth and all surplus meaning. .... Once the hope of balancing good and evil, true and false, indeed of confronting some values of the same order, once the more general hope of a relation of forces and a stake has vanished. Everywhere, always, the system is too strong: hegemonic. Against this hegemony of the system, one can exalt the ruses of desire, practice revolutionary micrology of the quotidian, exalt the molecular drift or even defend cooking. This does not resolve the imperious necessity of checking the system in broad daylight. This, only terrorism can do. It is the trait of reversion that effaces the remainder, just as a single ironic smile effaces a whole discourse, just as a single flash of denial in a slave effaces all the power and pleasure of the master. The more hegemonic the system, the more the imagination is struck by the smallest of its reversals. The challenge, even infinitesimal, is the image of a chain failure. Only this reversibility without a counterpart is an event today, on the nihilistic and disaffected stage of the political. Only it mobilizes the imaginary.

(deepl和訳(もはや資料の意味がわからないので訳の修正はできないししていません))

その代替案は、私の言論行為に対する過激な虚無主義的挑戦です。私たちが共同体としてフィアットに盲従し、政治的な表現が乏しいために、討論の意味が失われてしまったのです。私たちがここで行っていることと政治的なこととの間には何の関連もなく、ただフィアット・ゲームに参加することを拒否することだけが、私たちを意味へと近づけてくれるのです。

81のボードリヤール

分析はそれ自体、意味の凍結という巨大なプロセスの決定的な要素であろう。.... 大衆自身は、加速度による慣性の巨大なプロセスに巻き込まれている。彼らは、すべての成長と余剰の意味を消滅させる、この排泄的な、むさぼるようなプロセスなのである。.... 善と悪、真と偽のバランスをとるという希望、実際、同じ秩序のいくつかの価値と対峙するという希望、力の関係や利害関係というより一般的な希望がいったんは消えてしまったのだ。どこにおいても、常に、体制が強すぎるのである。このシステムのヘゲモニーに対して、人は欲望の策略を称揚し、日常生活の革命的なミクロロジーを実践し、分子ドリフトを称揚し、あるいは料理を擁護することができる。しかし、白昼堂々、システムをチェックする必要性は解決されない。これは、テロリズムにしかできない。たった一度の皮肉な笑みが言説全体を消し去るように、奴隷が否定する一閃が主人の権力と快楽をすべて消し去るように、残りを消し去るのが復帰の特質である。システムが覇権的であればあるほど、想像力はそのわずかな反転に打ちのめされる。限りなく小さな挑戦は、連鎖の破綻をイメージさせる。この対極を持たない反転性だけが、今日、政治の虚無的で不穏な舞台で、出来事となる。それだけが想像力を動員する。

deeplあるある: fiatは不換紙幣と、debateは討論と訳されがち(上では修正しておきました)

 

反論への再反論

再反論の原稿もあるのでパラッと見てみましょう。

向こうの原稿での再反論の原稿の整理のされ方ですが、XXという議論への再反論に「AT: XX」というラベルをつけていきます

ざっとインデックスだけ列挙すると下記のようになります。

  • AT: Where’s your role of the ballot?
  • AT: Perm
  • AT: The Aff is Possible
  • AT: Postmodernism is Bad
  • AT: Fiat is Good
  • AT: Morality Framing Good
  • AT: Debate is a Game
  • AT: Reps Bad
  • AT: Zanotti
  • AT: Kantian Monopoly on Force Affs

1つめについては、ROTB(role of the ballot)って要するに「ジャッジが今回否定側に投票することの意味の説明」なので、alternativeの内容が全く理解できていない現状では読んでもしょうがないのでやめておきます。

perm(permutation)への応答も興味ありますが、alternativeの内容が全く理解できていないので今回はとばします。alternativeが難しすぎるクリティークは大変ですね。

"AT: The Aff is Possible"は面白みが薄かったのでスキップ。

また、「ポストモダン理論はクソ」という反論は「否定側の議論のどこがどうポストモダンで、それがなんでクソか今回の場合に即して説明せよ」って言えば終わると思うのでまあいいでしょう。原稿もそんな感じでしたよ。

Reps Badは「肯定側の使用したrepresentation(=表象、まあクリティークの文脈では言葉とか表現とか内容、物語とかくらいの意味だと思えばOKだと自分は考えている)を問題にするクリティークはよくない」という肯定側からの反論です。それに対する再反論がAT: reps badなわけですが、まあrepsのクリティークそれ自体が単体でけっこう面白いテーマなのでまた今度、security Kを扱うときにでも見てみましょう*3

ZanottiやKantian...については銃規制論題のあるある議論/カードなのだと思います。ここでは触れません。

 

というわけで、ここでは面白さ重視でこのあたりを見てみます。

  • AT: Fiat is Good
  • AT: Morality Framing Good
  • AT: Debate is a Game

 

AT: Fiat is Good

このクリティークに対して「フィアットは別にいいこともあるよ」って言ってくるのは、あまりあたってない反論っぽいですよね。

さっきも見たように1NCの出だしが"fiat is illusiory"だから、条件反射的にfiat good論がとんでくるんだと思います。こういうニュアンスを無視した反論、クリティークをまわす側からするとつらいですよね(クリティークをまわしていて、そういう経験をした人も多いはず)。返すのもコストかかるし、ジャッジに誤解されやすくなるし。

 

じゃあどう否定側は再説明するのでしょうか。

さて、否定側の言っていたことをもう一回思い出しておきましょう。自分の拙い要約ですが、まあこんな感じでした。

肯定側は、とりあえず試合に勝つためだけに、分断を生み出す言葉を使って、深刻な社会問題を描写してみて、(なんでかはわからないけど)実際の苦しみを生み出す根本原因から目をそらし続けているわけです。

これを踏まえて、fiat goodにこう返します。

The argument isn’t that fiat is bad, it’s that the way we use fiat has abstractified away from its theoretical benefits. Fiat only makes sense if the topic and the ways we discuss it have grounding in the real world and how change is created. Yelling about morality and extinction is not how change is created; in fact, it is halting any real progress on gun control right now – that’s Klemash. 

Proving that fiat as a norm is good is not sufficient to disprove the critique, they need to show why their deployment of fiat is specifically good and has meaning beyond a won debate ballot. 

(和訳)

フィアットが悪いというのではなく、フィアットの使い方が理論的な利点から抽象化されてしまったということです。フィアットは、そのトピックや議論の仕方が現実の世界に根ざしており、どのように変化が生み出されるかに基づいている場合にのみ意味を持つのです。道徳や絶滅について[肯定側がやっているように]叫んでみることは、変化を生み出す方法ではない。実際、銃規制に関する真の進歩を今まさに妨げている。 

規範としてのフィアットが良いものであることを証明するだけでは、クリティークを否定するのに十分ではありません。彼らは、なぜ彼らのフィアットの展開が今回特に良い(=社会にとって有益である)のか、そしてディベートで票をもらって勝てる以上の意味を持つのかを示す必要があります。 

こんな感じです。まあそうだよなって感じですね!

 

AT: Morality Framing Good

否定側の「肯定側は道徳や義務論をふりかざすことで分断を深めている」という批判に対して、道徳的な言説を擁護する議論が肯定側からなされます。

どんなふうに擁護するのかはわかりませんが、否定側は下記のように再反論するみたいです。

Justifying morality’s enforcement from the perspective of morality is self-undermining

Klemash 13

The place of morality in law is undisputed historically, as the very language of rights reveals, but the letter of most law is absent any language of rights or morality. Despite this absence, the political rhetoric that supports or opposes contentious law is almost always filled with moral rhetoric. One could speculate that this is because whoever invokes morality cheats, in the sense that once morality enters the debate, the debate has little chance of returning to the nuts and bolts level of the issue at hand on a logical or rational level and instead becomes a war where neither side can gain ground. Perhaps politicians realize the implications of morality in law, that when they use it they are aware that they are trapped into their position. If they do realize this, then they undermine their morality by claiming moral superiority. By attempting to justify morality from within that morality, they fail to provide adequate reason violating the no harm principle as applied to political discourse, for they are invoking morality simply to create the dichotomy. When morality is used in this way, its use can undermine its own moral authority even as it claims that moral authority because it is trying to enforce its validity rather than recognizing or even attempting to compromise.

(deepl直訳)

法律における道徳の位置づけは、まさに権利の言語が明らかにしているように、歴史的に議論の余地のないものであるが、ほとんどの法律の文面には、権利や道徳の言語が存在しないのである。このように不在であるにもかかわらず、争点となる法律を支持または反対する政治的レトリックは、ほとんど常に道徳的レトリックで満たされている。これは、ひとたび道徳が議論に入ると、議論が論理的、合理的に目下の問題の核心レベルに戻る可能性はほとんどなく、代わりにどちらの側も地歩を固めることのできない戦争になるという意味で、道徳を持ち出す者がごまかすからだと推測することができる。おそらく政治家は、法律における道徳の意味合いを理解していて、それを使うときは、自分たちの立場が窮地に陥っていることを自覚しているのだろう。彼らはこれを実現する場合、彼らは道徳的優位性を主張することによって、その道徳を損なう。その道徳の中から道徳を正当化しようとすることによって、彼らは単に二項対立を作成するために道徳を呼び出しているため、政治的議論に適用される無害原則に違反する適切な理由を提供することができない。道徳がこのように使用される場合、その使用は、その妥当性を認識するか、あるいは妥協しようとするのではなく、強制しようとするので、その道徳的権威を主張しながらも、それ自体の道徳的権威を損なうことができます。

正直この論点はあまり興味がないので読んでいません!なので説明不可能。

一応載せてみただけなので、興味がある人はまあなんか掘ってみてください。

 

AT: Debate is a Game

ディベートなんてゲームだろ!みたいな肯定側に対する原稿もありました。

LOL well if we’re playing football I just got a concussion from the AC.

もうまじでこんだけしか書いてなかったです。ワロタ〜

 

感想や得たインスピレーション

というわけで読んでみましたが、けっこう面白いですね。

alternativeは興味がわきます。まあというより、ふつうにボードリヤール自身がこの社会をこのあとどうしていけばいいか、自分たちがどういう姿勢を社会に対して採るべきだと考えていたのかが気になるので個人的にいろいろdigってみようと思いました。

また、義務論affみたいなのに対して、今回のクリティークのような発想は仮説として持っておいてもいいかも。要するに「義務論っておまえ分断うむぞ」みたいな視点ですよね。

 

また、実は個人的には、今回のKはボードリヤール感が実は薄かったのかなと読んでみて思っています。

他のディベーターからもらったボードリヤールKはもっとボードリヤール感がありました。アメリカの国民皆保険導入に対して「医療や保険の世界はハイパーリアルが先行したシミュレーションの世界だから終わってる」みたいな。で、勢いつけて「ディベートももう死んでいる」みたいなことを言っていたはずです。

それもいつか紹介できたらしてみたいですね、などと思いつつこの記事はおしまい!じゃあね〜

 

11/28 追記

実は個人的には、今回のKはボードリヤール感が実は薄かったのかなと読んでみて思っています。

これ色々見てたら全然ウソでした。

まず、ボードリヤールは善悪という道徳的な価値の二項対立的区別から道徳的な支配が始まると分析していますね。

誰かが言語の主人、コミュニケーションの主人となるのは(言[パロール]の行為とその様態がこの言説の支配に介入する場合でさえ)、意味を土台にしてのことであり、誰かが市場を支配するのは、商品価値を土台にしてのことである。そして、善と悪の価値の区別にもとづいて、道徳的支配が始まる……。そのあとから、あらゆる権力が構築されてゆく。価値の向こう側に移行できると主張することは、おそらくユートピア的ではあるが、それは操作上のユートピアであり、事物のいっそうラディカルな働きを志向するための試みとなる。

ボードリヤール「パスワード」日本語版P22

また、カードの3つ目でされていた「銃というモノを象徴的に扱ってしまう」みたいな話も、モノが記号としてのイメージに置き換わってしまうというボードリヤールの大きなトピックそのものであるような気がしました。

 

おそらく、この原稿の作成者はもともとボードリヤールのこのあたりの文章を使って原稿を作っていたのかもなと思います。

でもわかりづらすぎて資料をより平易なものに泣く泣く変えていったのかなと推察した次第です。

 

*1:どうしようネタで作られた原稿だったら

*2:今回のように検索とかから拾ってきたクリティークは論題がわからないことが多いです。ここでもとりあえず推測しているだけです

*3:security Kについては今度この記事を取り扱ってみようと思います

https://hsimpact.wordpress.com/2014/10/12/the-misunderstood-reps-k-part-1/