やほほ村

思ったことを書くよ

2022JDA秋季大会に出て感じたこと

最近、またディベート大会に出た。自分としても「まだやってたのか」という感じが正直ある。

 

勝敗という意味での結果はそこまで奮わなかったのだが、色々なことを考えたり感じたりすることができた有意義な時間だった。

思えばクリティークと称される議論に手を出してから、毎回の大会の意味というか、そのシーズンで自分が何に向き合ったのかが、自分の中で重要な位置を占めるようになった気がする。

 

なんにせよ、今回のことをここに書き残してみようと思う。

後から読み返してきっと面白いだろうし、万が一、誰かが読んで何かを発見したり考え始めたりすれば儲けものである。

 

※長いので、目次から読みたいところを選んで読んでね!

 

出場するまでの話

今年の夏ごろを思い出すと、正直、自分の中でディベートに関わる意味が失われていたと思う。

理由については別の記事や、この記事の後ろの部分で詳しく書くのかもしれないが、端的に言うといまのディベートに自分が関わる意味を見出せなくなっていて、時間を割いてもなあと思っていた。

「選手やってもしょうがないし、ジャッジもジャッジで意味あるかなあ」と思っていた。

そしてちょうどディベート甲子園の時期にはコロナに罹患し、参加しなかった(ちなみに同居しているパートナーの登山予定もキャンセルさせてしまった……!)。

 

そしてディベート甲子園が終わり(その頃には既に具合も良くなり)、親しいディベート仲間はJDA大会に出るかを話していた。

自分は正直ぜんぜん出るつもりがなかった。意義が分からなくなっていたので。

 

このとき母校の後輩が自分をJDAに誘ってくれたのだが、断ってしまった。加えて、甲子園の4ヶ月くらい前に他の方から誘って頂いたときも断ってしまっていた。

どちらのときも理由をうまく言語化できないまま、「気乗りしなくて……」と言ってしまった。しかし振り返るにおそらく「これまでと同じようなことの繰り返しになりそうでキツかった」のだと思う。

ここ4,5年ほどはクリティークと称される議論をずっとやっている。優勝することもあれば、予選で1勝もできないまま終わることもあった。

そんなことをやっているうちに、「別にこんな消耗しないで、こういう話が好きな人で集まって話してた方が楽しくね??」と思うようになっていた。要するに、この手の議論特有の苦しみ(色々あるので後述)もあって、ディベートは自分にとってサステナブルではなくなっていた。

そういう感じが今回もきっと解消されないだろうと思い、あまり参加する気になれなかった。

(あのときはうまく言葉にできなかったけど、たぶん、こういうことだったのだと思います。断ってしまってごめんなさい!)

 

そんなところに、twitterでまたお誘いを頂いた(DMを非公開にしてしまっていたせいで、リプ欄に直接送られてきたのでびっくりした)。

前からTLでたまに見かける、全然話したことのない方だった。

さすがに一回も直接話さないまま断るのも悪いかと感じ、通話させて頂くことに。

 

通話当日は緊張しながら――初めての人と話すのは緊張するタイプなので――入室を待っていた。

そのうち二人が来て、軽く自己紹介しあった。一人はコロナにかかっていた。なお、もう一人もこの通話のあとコロナになったらしい。当時はコロナが流行っていた。

 

話を聞いていると、二人とも自分の周りにはあまりいないタイプのディベーターであった。

一人はJDA大会の論題候補の提案をしたとのこと。

その論題は採用されなかったものの、何らかの考え――ディベートそれ自体だけでなくディベートを取り巻く環境についても含んだ考え――が背後にありそうな候補だったため、自分は印象に残っていた。

問題意識を持って、わざわざ新しい論題について調査して提案するなんて、すごい熱量だなと思った。

 

もう一人はディベート甲子園に選手として出ていた当時、物珍しいプランを作って試していたとのことだった。

自分は範囲を絞ったプランで戦う戦略があまり好きではない(そんなことして嬉しい?とかぶっちゃけ思っちゃうくらい好きではない)のだが、どうやら話を聞いていると、部活の先輩がいない中で、地道にディベートについて調べたり考えたりしてそういう戦略に至ったようだった。この話もまた、印象に残っている。すごいなと思った。

 

二人ともなんだかすごかった。

 

二人は別にクリティークがなんだとかではなくて、社会人で一緒に出てくれる人を探していたみたいだった。

自分は出場したとしても伝統的な政策ディベートはやらないだろうなという確信があったので、そこだけ――すなわち、もしクリティークをやることになっても良いか――は確認させてもらった覚えがある。そして、その日の通話では返事を保留とさせてもらった。

 

何日か考えて、けっきょく自分は本当に身勝手な2つの理由から一緒に出場させてもらおうと決めた。

 

まず、正直な気持ちとして、特に若い世代の誰かに、クリティーク的な議論をつくって試合でやってみる経験をしてみてほしかった。

驚く方もいるかもしれないが、自分がクリティークと称される議論を初めてやった頃(2018年頃)は「クリティーク?なんか相手の言った言葉にかこつけてvoteさせるんでしょ??」みたいな二重の過ち――クリティークには言語Kしかない(価値Kなどはインパクディベートに還元される)と思っていること、そして言語Kのことを言っているのだとしても言語Kが持つ問題意識をおそらく決して理解していないことが話から推察されること――を無自覚に犯した物言いが割とはびこっていたと思う。

しかしJDAやCoDAでクリティークと称される議論がぼちぼち出てくるようになり、状況は変わった。なんなら後から聞いた話だと、誘ってくれた二人のうち一人はJDAでクリティーク的な議論と対戦したことがあったらしい。それに、日本語即興ディベートではクリティーク的な議論が出るんだとか。

そんなディベート環境にいる世代の二人に、実際に作って実践してみてほしい思いがあった。一体そしたら何がどうなるんだろうと思った*1

 

そして、この裏返しとしての2つめの理由があった。

自分がこの人たちとクリティーク的な議論を作ったらどうなるのだろうかと楽しみだった。

先述の通り、二人ともあまり身の周りにいないタイプのディベーターだった。なにか面白いことが起きるかもなあ……という、1つ目の理由と同じくらい自分本位の動機があった。

 

かしこまって理由を2つ挙げたが、大上段のノリとしては「ディベートは自分の中でもう意義を失っているけど、最後にちょっと面白い人たちと好きな議論やって終わろ〜」という感じだったと思う。

その時はそんなノリだってこと二人にはもちろん言えなかったけど、正直そういうところがあった気もする……ごめんなさい!

そんなこんなで出場させてもらうことになった。

 

ちなみに初顔合わせは、渋谷のワッフルチキンが有名なお店でやった。MOJA in the house。

おいしいよね!

渋谷的エモさも、食べ物自体の物珍しさも大学生の二人に気に入ってもらえるかと思ったが、二人ともエモさにも物珍しさにも興味がなかった

一足先に食べ終わってしまった自分の世間話を、二人が冷めきったワッフルチキンをナイフでギコギコしながら聞いている光景、今もめちゃくちゃ覚えている。チキンカチカチになってたでしょあれ。

 

今シーズンで思った・感じた・考えたこと

下記4つの観点から、今シーズンに考えたことなどを思い起こしていってみよう

  • 目標の振り返り
  • ディベートというものについて思ったこと
  • クリティークとかいうもについて感じたこと
  • そして今後のディベートとの付き合い方について考えたこと

 

目標の振り返り

今回のシーズンは、チームメンバーそれぞれの目標をみんなで共有して、お互い助け合えるといいねという約束をしてみた。

自分以外の二人はそれぞれ、これまでやったことがない反駁パートをうまくやれるようになってみたいとのことだった。ちなみに後から聞いたら、ディベートの幅を広げてみたいという思いもあったらしい。

二人は各自の目標をいい感じに達成できたのかが気になる。また今度聞いてみようと思う。

 

とりあえずここでは自分のことを振り返ってみる。

自分は3つの目標を持っていた。1,2はチームに共有していたが、3は内に閉まっておいてしまった(言えばよかったかも)。

1. 持続可能なディベートをする

2. チームの皆が面白いと思える議論をする

3. クリティークにつきまとう引っ掛かりに決着をつける、そしてためらいのないクリティークをやる

それぞれ見ていってみよう。

 

1. 持続可能なディベートをする(あるいはディベートとの適切な距離感)

持続可能なディベートは不可能だった。

持続可能というのは、まあ要するに「自分がやりたいときにやって、やりたくないときにはやらない、そんな態度で心身ともに健康を保って楽しんでいる」という状態である。

そして繰り返しになるが、それは無理だったのだ。

 

まず、日曜日が全滅した。土曜日もほとんど全滅。まあこれは不可避なのだ。

ジジェク的に言えば、カタストロフィはディベート大会に参加した時点で既に訪れているべきであり、なんならそうであるとしてもそのカタストロフィは避けられない*2

練習試合をしないと議論は強くならない。そして練習試合をするために前日に原稿を調整しなければならない。なんなら平日も危なかった(お昼休みにリサーチしてたらいつの間にか2時間経っちゃってたみたいな。もちろんその分長く働くんですけど……)

 

自分はずっと議論のことを考えてしまうタチなので、本当にずっと考えてしまった。部屋は汚くなり、パートナーとの時間は減り、毎日書いていた日記も中断され、仕事に関係する余暇活動もストップし……要するに散々である。

 

もちろんチームメンバーとの議論は本当に楽しかったし、自分が得たものも本当にたくさんある。これは本当にそう。

 

でもやはり、失うものが大きすぎる。もう自分はディベート以外にたくさんのものを人生に入れ込んでしまっている。

いま、色々なものが手の届く距離にある貴重な期間を過ごしている。これは自分の人生がそういうタイミングにあるという純粋に個人的な事情である。そして、そんな中、本当にディベートやるの?というのはよく考えた方がいいのかもしれないとやはり思ってしまった。いまは良くても、あとで後悔するんじゃないかと本当に少し思ってしまう。

 

クリティークと称される議論はようやく定型が見え始めている段階だと思う。しかし一方で、まだ全然その定型ですら完成度は高くなくて、全然組み替えていける。

これは個別議論の内容にとどまらず、いわゆるセオリー的な部分の説明の仕方や組み立て方ですらそうなのである。そうであるために、自分からすると政策ディベートよりも考えることが多いのである*3

 

となると、要するにけっこうキツいのだ。

転職して、パートナーとの共同生活を開始して、それから初めての大会だった。

これはつまり、仕事がディベートと同じくらいかそれよりも面白くなって、一緒にいる時間がディベートよりも楽しい人と一緒に住むようになって、それから初めての大会だったということだ。

要するに、けっこうキツいのだ。まあそれが分かっただけでも良かったのかもね。

 

2. チームの皆が面白いと思える議論をする(あるいは調査としてのディベート)

これは大成功だったのではないかと思っている。

自分はもちろん、チームの二人もすごく面白かった的なことを言っていたはず。たぶん。どうも、ディベートの捉え方とかが広くなったというか、ディベート観的な何かが変わったみたいなことを言っていた気がする。

 

自分は肯定側と否定側とで異なるクリティーク的な議論ができて――チームメンバーと話していて気づいたが、自分は直近の過去2回とも肯否両サイドで同じような内容の議論をしていた――、そしてどちらも自分が知りたいなと思っていたことに関連していたので楽しかった。純粋な調査としてもすごく楽しいシーズンだった。

 

肯定側は4年前くらいにCoDAでやってみた議論の進化系、というか洗練であった。いま振り返ると、もっともっと尖らせた方がよかったと思う。だけど、興味深かった。

否定側は資本主義Kである。ずっとずっとやってみたくて、普段読んでいるジジェクだとかホロウェイ*4だとか不可視委員会*5だとかに、いつ火を吹いてもらえるだろうかと楽しみで仕方がなかった。

だからこれは本当に楽しかった。ちなみに否定側の議論はチームメンバーの二人に作ってもらって、本当に感謝。ただ、もちろんこの資本主義Kもいま思えば、もっともっと先鋭的にできたし、実際すべきだったのかもしれない。

 

ただいずれにせよ、肯定側の政治や社会の在り方を問う試みも、否定側のダイナミックでcapitalisticな議論もめちゃくちゃ楽しかった。面白かった。

ちなみに国立国会図書館のリサーチで、好きな哲学者ランシエールの論文をいろいろストックできたのも嬉しい。また、リサーチと称して、大量のジジェクやラディカルデモクラシー系書籍を購入できた(称して購入できたとか言ってるけど、自費だから別に何でもない)。

ボードリヤールドゥボール*6もふくめて、今度時間があるときに読むぜ!(現代思想オタク)

 

3. クリティークにつきまとう引っ掛かりに決着をつける、そしてためらいのないクリティークをやる(あるいは、正々堂々とした楽しい社会運動)

これは少し個人的なことである。

2年前のクォーター制のときに色々と思うことがあったのが大きいと思う。あのとき、試合や盤外戦で言われた色々なことにまだ自分は決着を付けられていなかった。

「当事者ではないお前が議論する意味とは?」

「試合の外で何かをやっているのか?」

また、これは誰かに言われたわけではないが、自分の中で大きかったのは「純度100%の正義感・責任感から始まったの?もしそうでないとしたら、つまり興味のようなものがあって始めたことなのだとしたら、それって本当に良いの?」という疑問であった。

 

こういったことに自分の中で決着を付けられていない状態が、あれから2年間、どこかなんとなく引っかかるものを抱える感じにつながっているなと思った。

だから、今回のディベートではそれらの疑問へのアンサーを見つけたかった。そのうえで、新しく生じた疑問も自分の中では完封した状態で大会に臨みたかった。引っかかりもない、ためらいもない、後ろめたさも迷いもない、そんな議論がやりたかった。

 

そしてこれは達成できたと思う。

クォーターのときに感じた疑問も、新たに政治運動の文献を読み解く中で発見があり、なんとなくではあるが自分の中で決着がついていった(その中身については、それはそれでたくさん話すことがあるのだ。だからまた別の機会にしたい)。

特にこれは本当にいい本だった。

また、今回の「おれたち語りから出発しないといけないんだよ」という議論も、なんでそんな議論をするのか、社会にどうなってほしいのか、自分がそれをやる意義は何か、そういうことに自分の中では答えを持った状態で提出できた。だから自分としては良かった。

 

もちろんこのような姿勢、すなわち何かに答えを見つけた「つもり」になる姿勢は危険も孕んでいる。だからこれからも疑い続けることは必要なんだと思うけど、自分の中で、人前で話す際に必要な最低限の自信を2年遅れで今回の分まで含めて獲得できたことは良いことなんじゃないかなと思っている。

 

ディベートというものについて思ったこと

ここからはディベートというものについて感じたことを書き残してみる。

 

色々な人と関わるということについて

ディベートの準備を通して、色々な人と話すことを積極的に試みたシーズンだった。

そしてこれは普通に楽しかった。

 

例えば今回優勝したチームの方には、練習試合のあとに肯定側議論の説明の仕方を相談した。これはお互い発見の嵐で、めちゃくちゃ参考になったし、クリティーク的な議論がもっと流行るためにはどんなことが必要でありうるかも少し話して、充実した時間だった。

 

また、他チームの方で、自分たちと同じようにクリティーク的な議論に興味のある方とお互いのアイデアを検証しあう時間があった。試合や論題の外に存在している、社会の言説をどう試合に持ち込むかといった話で盛り上がった。自分が昔アメリカのディベーターにもらった原稿なども見つつ、ワクワクする時間だった。

 

そして、もうほぼ毎シーズン相談させてもらっている英語系ディベーターの方と今回もやはり話した。資本主義Kをコーチ時代に選手と作っていたらしく、色々と面白い議論の発想を聞くことができた。自分が普段出せないアイデアがたくさん出てくるので、いつも刺激的な時間になる。

 

また、前から知ってはいたんだけどなんだかんだで話せてなかった同世代のディベーターと、一緒にご飯をたべるような関係性になれた。現代思想やブログの記事、ディベートや仕事など色々話してめちゃくちゃ楽しい。いや、仕事の話はあんまりしてないや。ドゥルーズボードリヤールなど資本主義あたりの哲学、あとはクィア理論の話で盛り上がれて毎回楽しい。

 

そしてredditの住民。クリティーク的な議論で困ると、最近はけっこうredditで質問するようにしている。今回もたくさんの実践的な回答をくれた。本当に頼もしい。最高!


最後に、何よりチームの二人。

自分が言える/言うようなことじゃないんだけど、本当に尊敬しています。

議論も精確だし、スピーチもうまいし(二人とも初挑戦のパートでなぜあんなにやってのけることができるのか)。

でも何より、芯があって、常に絶対に自分で考えることを諦めない姿勢に凄味を感じるディベーターだった。信念を感じるというか。

ディベートとは生き方である。ディベートをやっていない人間でも、その意味で、ディベーターたることは可能である」と言った人がいると聞く。

それが本当だとすれば、まさに二人はディベートをやめても、ディベーターであり続ける人間だと思った。そして、そんな人たちとチームを組めて本当に良かった。

一緒にチームを組んでくれてありがとうございました、本当に。本当に、たくさん勉強させてもらえました。

 

JDAには出場しづらいらしい(??)

先述の通り、今回は色々な人と話す機会がたくさんあった。また、実は今シーズンより前にも自分より少し下の世代の方々と話すことが何度かあった。

そういった中で「JDAは中学生や高校生からすると出にくい」という話を耳にした。

これは少しさびしい。なぜなら、まあやはり色々な人が集まってもっと気軽に「わ〜負けた!!!!あーーーー悔しい!!!」とか「楽しかった〜!」とか言えたらいいよなと思うからだ。

 

これについて色々な人と議論し、3つくらい理由があるのではないかという話になった。全部推測なので本当かどうかは全然分からないけど、それぞれ一応思うところを書いておく。

 

1つ目は、「JDAの試合のレベルは高く、気が引けてしまうのではないか」という説。

これは半分本当で、半分間違いなんじゃないかと思う。

なんかすごい試合が展開されているのを見て、気が引けてしまうのは分かる。というか、それは当然感じる気持ちである。自分もバドミントンをやっていたことがあるが、上手いなあと思う人たちと試合をするのは「ひぇ〜」となってしまう。

ただ一方で、実は出場してしまえばどうにでもなる側面もあるだろう。

自分も高校生の頃、地区のスタッフだった大学生の方と一緒にJDAに出て、ボロカスに負けてしまった*7

ただ、まあ要するに負けてしまっただけで、別に何かとんでもないことになってしまったわけではなかった。あのときの相手はラッキーだと思っただろうし、別に大会の面汚しになったわけでも、相手に不満を覚えさせたわけでもないのだ。

「こいつが相手じゃつまんねえ〜」と思わせてしまう可能性も心配しなくていいと思う。そういうことを考える人はシンプルに、いない。みんな良い人なので普通に一生懸命試合してくれるし、むしろあなたがこんな心配をして大会に出ないことの方を残念がるだろう。

 

2つ目に、「普段ジャッジをしてくれている人たちの大会なので、自分たちが出る幕ではないと思っている」という説。

こう思わせてしまっているとしたら、相当良くないと思う。

このように考えている人の頭の中には『「ジャッジ」は「選手」より偉い/優れている/権威がある』という公式が埋め込まれている可能性があるが、それは真っ赤な嘘であろう。

ジャッジも選手も同じディベーターであり、試合においてはその役割が違うだけである。あくまでも立場は対等であり、選手がすべてを賭けてスピーチするように、ジャッジもまたすべてを賭けて判定を出し、講評の中で説明責任を果たす。お互い、相手を納得させるための闘争の真っ只中にいるのは変わらない。

だから、ディベート甲子園ではあまり見かけない(自分だけ?)が、もし判定に納得いかなければ試合のあとにジャッジを捕まえてどんどん質問すればいい。そしてジャッジは時間の限り、それに応える義務がある。

そんな物騒なケースでなくとも同様である。例えば納得のいく試合だったとしても、選手は気軽にジャッジに質問できるし、ジャッジも選手にアドバイスすべきだろう。

何にせよ、「普段ジャッジをしてくれている人たちの大会なので、自分たちが出る幕ではない」などという発想はもう全然何も正しくない。

 

そして、これはそう感じさせる原因の一端をディベート甲子園の雰囲気が担っていそうだなと個人的には思う。

自分もあの大会に出ていたが、ジャッジと選手の距離は正直そんなに近くないケースが多かった。「ディベーター」同士ではなく、「生徒」と「色々知っている大人/教員」のような距離感があそこにはあった気がする。

これは色々な要因があると思う*8からまた別の機会に考えるけど、とにかく中高生ディベーターはそんなに遠慮することないと思う。

「甲子園のジャッジ」は要するに「ただのそのへんにいる大人」であって、何か特別な権威があるとかではまったくない。中高生よりちょっとディベート長くやってるだけで、普通の人なのである。だからもっとフラットな気持ちで、「一緒にディベート大会盛り上げてくれてる仲間」くらいで認識したらいいんじゃないかと思う。全然、JDAにも出てみてほしいよおれは。

 

3つ目は、「質疑とかふくめて試合の雰囲気が怖いのでは」という説。

JDAの質疑の雰囲気が悪すぎるという意見には、個人的に全面同意する。怖いよね、単純に。

選手の人たちはちょっと気をつけていった方がいいと思う。

 

ただ、そもそも質疑の目的を間違って設定していることで雰囲気が壊れるケースも見る。これは競技的にも勿体ない。

つまり、質疑の基本は「反論を通しやすくするために、相手の前提を確認する」ことであり、決して「相手が隠している都合の悪いことや、こちらにとって都合の良いことを言わせる」ことは目的ではないはずなのに、後者をやろうとして謎に威圧的になっているケースがある。これは良くない。

基本的には、主張の根拠を落ち着いて確認し続けて、反論をあてたい内容や論理構成が明確になった瞬間、そこはもう切り上げればよいはずだと思う。

特に「えっそんなこと資料では言ってなかったですよね?」とかは個人的に、全然やる意味がわからない。そんなこと言ってどうするんだろうか。ジャッジ的にはたしかに印象に残るが、相手には言い訳されて有耶無耶になるのでコスパ悪いんじゃないかと思って聞いている。そんなこと言わずに、反論のスピーチで「そんなことは言ってなかった」と一言言えばいいんじゃないか。

あたらない反論をあてるために質疑で何とかするという狙いがあるのかもしれないが、JDAのディベーター相手には通用しないと思うのでやめた方が良いと思う。相手をやりこめてやろうみたいな態度で臨むと絶対に失敗するので、質疑は自分が確認したいことを「言わせる」のではなく「聞いてみる」だけで基本いいんじゃないかと思う。

 

いずれにせよ、このあたりのことは以下のブログに詳細に書いてあるのでおすすめである。自分が今までのディベート人生で一番上手いと思う質疑者――本当に、誇張なく、JDAでも甲子園でも何でも、彼以上にうまい質疑を見たことも聞いたことも全くない――の質疑を事例に、質疑のキモが分析されている

 

ディベートは世界を変えると思う

ディベートは試合を通じて世界を変える」という主張がクローズアップされるようになってきた。これはおそらくクリティーク的議論の影響があるのだと思う。

自分は色々やってきたけど、やはりディベートの試合において何が話されて何が票を獲得するかということが、幸か不幸かこの世界に影響を与えていると感じる*9

 

試合で出す議論として「政策ディベートの悪さ」を考えているうちに、それを真に受けて、いままでのディベート経験の正しさを省みるようになった大学生。

およそ10年前、ディベート甲子園で死刑囚の生命権を論じてみたある高校生は、自分たちに票が入ったことで生命権の不可侵性を初めて真に受けたらしい。

「働かざるもの食うべからずっておかしいでしょ」というスピーチが優勝したその日、ある高校生はそれを真に受けて、生活保護受給者をたしなめる発言をした家族に「それ違うんじゃないか」と言ってみたらしい。

いつかのディベート甲子園で、相手の肯定側立論の出だしで紹介された「自分の家で飼っている犬シュートくんの話」を真に受けずに全シカトして試合に勝った中学生は、シュートくんのことを忘れてしまっているかもしれない。

 

ディベートの準備も、議論も、試合も、投票もすべて影響すると思う。少なくとも自分は、影響された人たちをたくさん見てきたし、これからも見るのだろう。

 

パラダイムを意識することについて

自分の中では政策形成パラダイム――論題を具体的な政策に例化して、メリット・デメリットに基づいて判定をする形式――というものが完全に相対化されてしまって久しい。

ジャッジとしても、政策形成パラダイムとそうでないパラダイムが双方から出されたときに全然推定はおけないし、affのパラダイムを基本的には推定としてしまうと思う。

だから、試合をやるときに自分がもし政策形成パラダイムに則ってメリットやデメリットを出すってなったら、自分はおそらく「なぜこの論題でおれは政策形成パラダイムを選んだんだろう」と考えてしまうと思う。

 

こういう感じになったのはクリティーク的な議論をずっとやっているからだとは思うけど、こういう視点が昔の自分にもあったらディベートがもっと面白かっただろうと感じる。

世界には色々な議論の仕方があり、ディベートの試合ではそのうちの一部が選ばれる。だから、選ばれなかったやり方に強く紐付いている知識や考え方は試合からはすっぽり抜け落ちる。

もっと言えばあるシーズンにおいて、ある一つのやり方がずっと支配的であれば、そのやり方で重視されない知や言葉は準備段階からも抜け落ちて、ディベーターに触れられずに終わっていく。

クリティーク的な議論をやるまでの自分は実際、政策形成パラダイム下で評価されやすい議論や知しかディベートでは触れてこなくて、なんかそれってすごく勿体なかった気がしている。

 

だから、ディベートにおいて少なくとも自分がどのような議論形態をなぜ採用して、それによって何を重視し、何をシャットアウトしたのかは意識的になりたいなと思った。

無論、それは政策形成パラダイムではないパラダイムを選ぶときにもそうだし、ディベートに限らず、普段の生活においてもそうなんだと思う。

 

クリティークとかいうものについて考えたこと

クリティークについても色々考えてみたので書き残しておこう。

 

なんでクリティーク的なものを始めたのか

自分がクリティーク的な議論をやり始めた理由を少し振り返ったので、それを書き残しておいてみる。

 

自分がクリティーク的な何かを始めたのは、「議論の実験場」たるJDAディベートに憧れがあったからだと思う。

中学生3年生くらいの頃、部活の顧問がJDAという大会に昔出たことがあると知ってトランスクリプトを読んでみた。そしてそのとき、すごく面白くてワクワクしたことをハッキリと覚えている。

型に囚われない議論構成、謎のCP、プランを出さない肯定側、なんだか面白い名前のメリット・デメリット、よくわからない議論などなど……そこはまるで宝の山で、他校との練習試合で「内因性」とか知ったばかりの言葉を使ってみるなどした。楽しかった。

また、高校2年生くらいの頃、JDAに出たという部活のOBが録音を持ってきた。なんだかめちゃくちゃ上手いスピーチがそこから流れてきて、うおおお!って皆でなった。そして全国大会に行ってみると、その人がジャッジをやっていたりして、またうおおお!って皆でなった。

 

とにかく、自分にとってJDAは「なんか面白い人たちが面白いことをやる場所」だった。「議論の実験場」「ディベート実験室」などといった言葉の存在は、そこに「勝敗」以外の序列――序列でもないのかもしれない――があることを語っていたように思えた。

例えば、自分が最も長い付き合いをさせてもらっているディベーターは昔こんなことをJDA関連の出版物で言っていた。

ディベートをあまり知らない人がみても「なんか早口で,小難しいことを言っているけど,いま日本ではこんな問題があるのか。勉強になったなぁ。」と,何か感じ取ってもらえるようなディベートをするように心がけています。

自分はこの姿勢が本当にクールだと思った。要するにかっこいいのだ。

試合に勝つことが全てじゃないという価値観がそこにはあった。

ディベート甲子園は正直、自分にとっては勝つことが全てだったと思う。勝ったり負けたりで一喜一憂して、もちろんそれだってすごく価値のあることだったと思う。

でもとにかく、そんな状況で、なんかよくわからん人たちが「実験ですわこれ」とか言って、なんかよくわからんことをやっているディベートの在り方が、本当になんかすごいものに見えていたんだと思う。

勝敗よりも面白い何かを自分も知ってみたかったのかなと今になって思う。

 

そして、クリティークと出会ったのもその頃だった。

高校生の頃、なんでかは覚えていないが、どこかでクリティークという言葉を知ってネット検索したら謎の論文が出てきた。それはWilliam Bennettの'an introduction to the "kritik"'だったのだが、それをとりあえずがんばって読んでみた。

日本語に翻訳して当時部内で人気だったブログ"Tabula Rasa"に送りつけよう*10と盛り上がっていた。結局、自分の翻訳能力はそこまで高くなく企画は中座して、その夢は果たせなかった。

自分の中でクリティークは「よくわからん理由で投票理由がメリット・デメリットとかを超えるなんかすごいやばい議論」って感じだった。でももうそれだけで十分だった。十分面白かった。なんかかっこいいし。

 

その後、大学進学に伴ってたまたま上京した。そしていまでは友達(というか仲良しの人?知り合い?友達って言うのだろうか)になった2人に誘ってもらってJDAに出てみた。

JDA戻ってきたぞ!うおおお!」(先述の通り、高校生の時に出て惨憺たる試合をしてしまった)と意気込んで、実際かなり楽しかった。そのあとも3人で出た。本当に面白くて、楽しくて、得るものがたくさんあるシーズンを過ごした。

 

そんなこんなで大学卒業を迎えるころ、「まあどうせもうディベートはできなくなるだろう」と思った。それでふと思ったのは「クリティーク」だった。

あのときは英語もできなくて概要すら掴めなかったけど、最後にもう一度だけディベートをやるなら、クリティークなるものに挑戦してみたかった。

そして、色々なやばい議論が出回るあのエキセントリック空間を結局自分は体験したことがないじゃないかという思いも重なり、自分は「実験場」に「クリティーク」を出してみたくなった。

 

これがコトのあらすじだと思う。それからは色々な人と一緒にクリティークなるものを作って出して諦めて、でもやっぱり諦められずにもっかいやってを繰り返して今に至っているわけで、本当に一緒にやってくれる人たちの存在はありがたいなと思う。

でもクリティークに限らず、一緒にやってくれる人がいるのは本当にすごく嬉しいことだと思う。

 

@これまで組んでくれた方々へ

本当にたくさん勉強させてもらいました、ありがとうございます……!

 

クリティーク的な議論は目覚ましく発展してきている

これまでのクリティーク的な議論の作成はかなり場当たりだったのだが、色々な議論――価値クリティーク的なものやactivism的な議論、言説、論題の肯定方法の変更などなど――をやってきた経験を活かし、今回はチームメンバーと協力して体系的に計画的に構築することを意識した。

その中で、昔よりも自分の理解が進んだのはもちろんなのだが、やはり日本語ディベートコミュニティでクリティークなる議論(やそれへの反論)がめちゃくちゃ発展したなと感じた。

 

まず周りの受容度というか、選手やジャッジのクリティーク的なものへの認識がだいぶ変化したと思う。

 

最初にコミュニティでのクリティークのイメージ的なところでいうと、ちょっと前まではクリティークのことを言語クリティークだと思っている人がまあまあいた(ソースは自分の記憶!)。「なんか謎にいちゃもんつけるタイプのやつでしょ」って思われていたわけだ。

でも今ではそんなことを思う人は多分ほとんどいなくなっている(ソースは自分の感覚!)。

 

そして選手のクリティーク的な議論も深度を増した感じがある。

今回の大会では肯定側で提出したフレームワークの議論に、本当にたくさん資料付きの重い反論が来た。

それも、ディベートやクリティークの一般論を資料でわざわざ言ってみるみたいなものではなくて、「語りの紹介はサバルタンの声の収奪につながる」みたいな批判理論的な資料*11とか、「共感は実際にはできないんじゃないか」ということを詩で問題提起するとか。

否定側の議論にも「再生可能エネルギーの存在は、資本主義が社会の要請に従って形を変える=社会が資本主義をコントロールできていることの証明だ」みたいな反論が来た。これもかなり面白い議論だった。

これはすごいことだと思う。ちょっと前まで、そんなに重たい反論とかをあんまり用意されなくて、今回ガンガン来たので「うおおお!(悲鳴)」となった。

 

そしてジャッジ。試合で、クリティーク的なものに対する若干些末な論点に対してジャッジが「これはあたってないでしょ」と言うことがあった。

これは何がすごいかと言うと、クリティーク的なものを出す側とジャッジとで感覚が一致することが起こったのである。ちょっと前なんてクリティーク的なものを出している側とジャッジとで感覚が一致することなんてサラサラなかった。

 

また、パラダイムシフトはかなり成功するようになった。

今回の肯定側は、練習試合ふくめて「語りからまずは考えようよ。だから語りを通して論題を肯定/否定しようよ」というパラダイムシフト自体は、ほぼ100%の成功率だった。なんなら今シーズンの議論を通じて、自らのジャッジとしてのパラダイム推定を変更したチームメンバーもいた(今度また本人にも聞いてみようと思う)。

また否定側も「ディベートは試合を通じて影響する」という話は、何ならあまり説明せずに通るようになった。「投票は影響を与える」についてもdebatableではあったが、反論されなければ採るというジャッジがいた。ただ、「投票は影響を与える」はまだ説明が少し必要そうな局面も少なくない。

しかしいずれにせよ、かなりクリティーク的な議論の「やっていること」「やろうとしていること」へのベースの理解がコミュニティに浸透していると思う。これは本当に大きなことだと思う。

 

ここまではコミュニティでの扱われ方の話だったが、クリティーク的な議論そのものの今後のさらなる発展もこのシーズンで見えたように感じられる。

これはやはりチームの二人――自分のように先入観や知識でガチガチに武装してしまっていない二人――がクリティークをゼロから考えて構築してくれたことに大きく依っていると思う。

特に否定側の議論作成を通じて、価値クリティーク的な議論のエッセンスに近づけたのはすごい成果だと思う。日本語ディベートコミュニティで出たクリティーク的なものの中には、価値クリティークっぽいものはあまりなかった気がするのでこれはすごい。

なんなら、今回の否定側の資本主義の議論はシミュレーションの枠内に収めることもできる。パラダイムシフトの議論に追われがちなクリティーク的議論にとってはこれは朗報だろう。アメリカではシミュレーションの枠内に閉じたクリティークがもうバンバン飛び交っている――なんならそこに投票やディベート空間の意義、すなわちpre-fiatの議論を組みわせていく――が、そこのノウハウが今後ドンドン増えていけばなあと思う。

 

ディベートとの付き合い方について考えたこと

振り返りの最後は、今後のディベートとの付き合い方について考えたところを書いておきたい。

 

先ほどこんなことを書いた。

自分はずっと議論のことを考えてしまうタチなので、本当にずっと考えてしまった。部屋は汚くなり、パートナーとの時間は減り、毎日書いていた日記も中断され、仕事に関係する余暇活動もストップし……要するに散々である。

もちろんチームメンバーとの議論は本当に楽しかったし、自分が得たものも本当にたくさんある。これは本当にそう。

でもやはり、失うものが大きすぎる。もう自分はディベート以外にたくさんのものを人生に入れ込んでしまっている。

要するに、大会にバンバン出るみたいなことはもうそんなにできない気がするのだ。

 

ただ一方で、ディベートでやりたいことはまだまだたくさんある。

ディベートでやりたいこと」と言ってみたけど、これはまあクリティーク的な議論のことである。クリティーク的な議論について下記のようなことを気が向くままにやっていってみたい。

  • 議論および試合戦術の開発
  • 議論の発想を得るための知識の整理や、リサーチ方法の体系化
  • 理論的な側面を解説する資料の公開
  • 海外リソース(面白い文献や音声、資料が本当にたくさんある)の翻訳
  • 試合(モデルディベート)動画の公開
  • 実際の試合を題材とした解説の公開
  • 実際に試合でも試せるクリティークらしき議論の公開
  • 面白さの伝達

また、やはりクリティーク的な議論に固有でつきまとう難しさについてはそれをカバーするような材料を作成していきたい。

それは例えば仮説検討の勘所――思想的な論客が何を言っていそうかの勘所――や、言い回しのニュアンス――資本主義を「破壊」するのか「拒絶」するのか「変更」するのか「修正」するのか「破壊するために加速」させるのか……などなど――を試合でコントロールすることの繊細さの話かもしれない。

 

とにかく自分はもっとクリティーク的な議論に皆が手軽に手を出せるようにしたい。

ゲーム的に面白そうだからやってみるでもいいし、世の中に主張したいことがあるからやってみるでもいい。動機なんて何でもいい(誰がどんな理由でその議論を出しているかなんてどうでもいい)から、とにかくやってみてほしい。

 

こんなことを考えてみたとき、自分は大会に出なくとも楽しめることがたくさんある気がしている。というか何なら、上で挙げたようなことを本当にやっていくなら、大会に出ている暇なんて無いのだ。

 

また、今回分かったことのもう一つとして、自分はクリティーク的な議論を試合でまわすことに興味はありつつも、それとは別でそういう文献を読むこと自体が楽しいということがある。要するに興味のある本を読んで、その内容を友達と話したりブログに書いてみたりするだけでも割と満足できるのだ。

 

以上のことを考えると、一旦は大会に出るとかではなくて、試合外の部分でクリティーク的な議論を広めたり、漁ったりをメインに据えてみるのも楽しいかなと思い始めている。

と言いつつも結局、おそらくまたいつか試合に出てみたくなるときはおそらく来るのだが、それはそのときまた考えてみよう。

こんな感じで、自分が好きなディベートと、自分が好きなやり方で気長に付き合っていけたらいいななんて思った。

 

おわりに

今回の大会は本当に学びが多かった。

成立させること自体に苦労してきたクリティーク的な議論を、今回はかなり早めの段階で成立させられたことはかなり嬉しい。それは先ほども書いた通り、ここ4,5年でとりあえず典型的なタイプのクリティーク的議論については一通り作ってみたことが大きいと思う。気長にやってみるものである。

長年憧れだった資本主義クリティーク的な議論ができたことも本当に嬉しかったし、それをきっかけにシミュレーションに閉じたタイプのクリティークの可能性や勘所が見えたのもすごく達成感がある。もはや希望といっても差し支えない。

大学生の頃にやってみた議論を肯定側でリバイバルできたのも良かった。やはりあの頃とは少し違う景色も見えた気がする。

 

最後に、組んでくれた二人には本当に感謝です。こんな面白いシーズンが過ごせてよかったです、本当にありがとうございました!

*1:誘ってくれた二人が、おそらくクリティーク的な議論を気に入るだろうという謎の感覚もあった

*2:大義を忘れるな」にてプロジェクト的時間の認識を説いています。カタストロフィが起こった未来から帰ってきたつもりで、行動せよと。

また、「あえて左翼と名乗ろう」では、通説と逆に考えるべきだと言います――「未来は変えられないが、過去は変えられる」と。

下記の記事を読んで興味をいだいたら是非読んでみてください👶

*3:一般論ではないですよ!あなたがやったらクリティーク的な議論のが楽かもしれませんし、ここでは政策ディベートが楽だとか言っているわけでは決して無いです。自分も政策ディベートガンガンやってた身なので、その辛さは十分に分かっています。分かっているつもり、とかではなく、普通に知っています

*4:

*5:

*6:ここで「スペクタクル」についての解説が読める

https://artscape.jp/artword/index.php/%E3%80%8E%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%80%8F%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB

*7:道州制で、具体的なプランを出さない肯定側をやってみて全然だめだった

*8:選手・スタッフのドレスコードから、そもそも部活という形態の性質まで本当に色々あると思う。まあ教育イベントですから色々大変ですよね……

*9:余談だが、クリティーク的な議論の「投票と現実への影響の関係性」に関するロジックには2パターンあると思う。1つ目に「投票されることで社会にいい影響を与えられる」というような「投票が影響の原因であるパターン」、2つ目に「社会に良い影響を与えたのだから投票されるべき」といった「影響が投票の原因であるパターン」。これは場合に応じて正しく使い分けたい

*10:なかなかアグレッシブでいいですね

*11:スピヴァクサバルタンの話です。こことかわかりやすいかな? シミルボン