やほほ村

思ったことを書くよ

wasabiの風味について

「英語にはもともと、わさびの「辛さ」を表現する言葉がなかったから、あの風味を表現するために"piquant"という言葉をフランス語から輸入したんですよ」

本当かどうかは分からないが、こんな話を耳にした。

 

"lost in translation"という言葉がある。それは、「ある言語における表現を、異なる言語に翻訳し、再び翻訳して元の言語に戻した時には意味が変わっている」という状況を示す言葉である。表現の仕方、幅の広さ、または理解のされ方といったものが違うがために起きるのか。おそらくフランス語と、フランス語から語を拝借する前の英語とを使えば、わさびの辛さを"lost in translation"させることができるだろう。

わさびの風味が"piquant"という言葉を得る前の英語話者にとってどれほど新鮮なものであったのかは私には知る由もない。しかし私としては、わさびの風味を表現するための単語が「新たに追加された」という事実に感動を覚える。

 

使用する言語によって世界の認識の仕方は違うだろう。

森の中に住む民族は我々にとっては同じに見える木々を区別して呼称するかもしれない。一定以上の数をカウントしない(=区別しない)人は、自然数の範囲で事実上限りなく物の数を数える人とは違う世界をみているのではないか。

同様に、件の言葉の獲得以前の英語による世界の認識では、わさびの風味は完全に未知のものである。それは既存の言葉で言い表そうとすればすり抜けるものなのである。私は英語がわさびの風味を既存の単語の網に押し込めなかったことに非常に心を打たれる。やろうと思えば、わさびの風味を既存の言語でもって「言語化」して、あたかもそこになにも新規性などなかったかのように振る舞えたのではないかと思うのである。当時の"hot"や"spicy"でそれなりに表現したような気分になって終わらせることができたのではないか。

 

私は時折、新規性を消滅させるのと似たようなことをおこなってしまう。

例えば、とても高い場所に登って、街を一望したとき、「きれい」だの「素晴らしい」だの「夢でもみているみたいだ」だの、そういったことを口にするときである。私が感じたものはもっと新しいものだったのである。言葉にするには到底、言葉が足りないようなものだったのである。それは感情だったのである。いや、感情ですらなかったのかもしれない。得体のしれないもので、しかし確かに少なくとも私の心は動かされていた。しかし、私の口にした言葉はそれをすべて掻っ攫っていった。すべてがなかったことになった。言葉で言い表せなかった何かは言い表されて、大量生産品のような陳腐さを纏った。一方で"piquant"はそうではなかっただろう。それは紛れもなく、英語にとって新製品だった。

当時の英語話者は言葉を輸入した時に、その言葉の意味を皆で共有することが非常に困難であったのではないかと私は推測する。彼らの「輸入前の言語」では、つまり「当時の英語の「輸入された言葉を除いた」残りすべての部分」では、輸入した言葉を説明することが不可能なはずだから。説明できるなら、言葉を輸入する必要がそもそもない。

こうして未知との遭遇を隠蔽することなく、そして説明できないなにかから逃げることもなく、そのwasabiとの邂逅を、事件を言語は受け入れてまた一段と豊かになったのである。いかなる言語も新しい言葉を取り入れるたびに、この過程を踏まえているのかもしれないと考えると、私は言語というものに敬意を払わざるを得ない。

 

ところで外国語を使って誰かと話していると、時折、たぶん私とこの人とでは描いているイメージが異なるのだろうなと思う。これは会話が成立して、かみ合った話をしていてもである。

例えば英語の場合、ネイティブスピーカーが接してきた"get"と私が接してきた"get"では認識するイメージも意味も異なるだろう。"funny"といった言葉のイメージもそっくりそのまま共有しているはずがないと感じる。いずれの場合も会話は成立する。しかし明らかに、すべてのイメージがそっくりそのまま共有されてはいない。辞書による定義を確認しあうことはできる。「funny:what makes you laugh is funny」などと書いてあるのだろうか。しかし辞書の定義も言葉によって説明されている。定義を理解した末に抱くイメージが両者の間で同じである保障はない。いかなる言葉も、その意味を習得するにあたって使用された「人生における経験」は個々人で異なる。私と相手とでは人生のなかで"funny"という言葉を使った、もしくはその言葉が使われた経験が異なる。どのような言葉もそうだ。そうであるなら、どうして相手と私が同じ言葉で話していると思えるのか。どうして同じ意味、イメージを共有していると思えるのか。

 

そして、このことは母国語の場合であっても当てはまると思うのだ。

経験が異なるのは、このケースにおいても同様だから。そうであるならば、個々人によって言葉の意味は違う。昨日の昼にりんごを包丁で切って、皮も剥いて食べたあなたが「昨日の昼にりんごを食べた」と言ったとき、相手はあなたがりんごを丸かじりしている様子を思い浮かべるかもしれない。こういった差異は時に微小なものであるかもしれなければ、時に大きなものであるかもしれない。「その言葉をあなたはそんな風に使うんだ」と感じるときなどは、言葉の差異が刹那、その姿を見せているのかもしれない。

 

このように、ふとした拍子に「自分語」と「相手語」との差異が現れることがある。

そして、こういった差異は文法的な統一性やその他いろいろな要素によるカテゴライズの結果として、それぞれの言語につけられた「日本語」だの「英語」だのといった名前がもつ権力のもとに隠蔽されたり、矯正されるべきものだとされたりする場合がある。ひどい場合には「相手の言語と自分の言語の言語学的なラベルが同じである」ということだけを理由に、差異を消滅させるべきものだとし、さらには「自分語」が正しいと思い込んだまま、相手の言語を乗っ取ろうとする、植民地化しようとする人間を時折見かける。「それは正しくない日本語だ」「正しい英語ではない」といった言葉は最悪のケースではないが、それらもまた一つの場合ではないかと思う。

 

ただ、他者の言っていることを理解しようとするのであれば、この植民地化行為は避けられないと感じる。

相手の話していることの意味が分からないとき、私は「つまりはこういうことですか」などと言いながら、相手の言っていたことを偽善者ぶって言い直しながら確認してみようとするときがある。これも植民地主義だ。なぜなら私は相手の言葉を、自分の言葉の網に閉じ込めているからだ。これは口に出して尋ねず、頭のなかで黙って理解してみようとしたとしても同じである。相手の言葉は悲しい哉、原理的に自分の言葉でしか理解できないからだ。私が理解した瞬間、理解という行為が自分の言葉で行われるが故に、相手の言葉は相手の言葉ではなくなっている。相手の言葉は私の言葉に変換されて、相手の言葉のままでは届きえない。

 

しかし、それでも相手の言葉をそのままききたい、相手が持っているイメージをそのまま共有したいと感じるのだ。そのような思いから投げかけられる言葉は美しいと私は思う。それは世界で最も優しい言葉ではないか。そして、もし他者の言葉をそのままつかめたとしたら、「自分語」は「相手語」の言葉を輸入したことになる。そのとき私の言葉、「自分語」は一段と豊かになっているのだ。それは、理解できないものを理解できないものとしてそのまま認めるある種の無知と、説明できないものを説明しようとする気の遠くなる努力の先にある一つの不可能な到達点かもしれない。しかし私はその到達点に向かうことを諦めたくない。暴力的ではない、優しい言葉を吐き続けたい。wasabiの夢を見続けたい。