やほほ村

思ったことを書くよ

女性ディベーターの少なさは何を引き起こすか。私たちに何ができるか

 

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Morooka "Gender Diversity in Debate in Japan: An Examination of Debate Competitions at the Secondary and Tertiary Levels"より、2015年から2016年における日本国内ディベート大会での出場選手の男女比率に関する調査結果の一部

この記事では、何が話されているのか

この記事はディベート界における女性の少なさについて考えるものです。

具体的には、なぜディベートの世界には男性(に見える人)が多いのか、女性ディベーターの方々はどう思っているか。そして、女性ディベーターやジャッジを増やすために何ができるか――要するに女性ディベーターが少ない原因、少なさが引き起こす問題、そして解決策という3つのことを考えていきます。

女性ディベーターに話を伺ったり資料を調べたりという中で、色々なことを知りました。そして自分なりに様々に考えてみました。私は自分が知ったことや考えたことを、皆さんも知っているべきだとおこがましくも考えています。これを読んだ方がディベートのコミュニティについて考えて、何かが変わっていくことを切に願います。

なお、この記事について悔いが残る点があります。それは、ここでは女性についてのみしか取り上げられなかったことです。
本記事の問題意識は女性という属性の文脈のみに限られることではなく、他のジェンダーセクシュアリティもっと言えば人種や使用言語など、いわゆる「マイノリティ」と呼ばれうる属性の方々に一般に当てはまることだと思います。しかし今回は後述の背景もあり、一旦は女性ディベーターの少なさについてのみを話すこととさせて頂きます。

ディベートコミュニティがあらゆる人にとって居やすい空間になっていくために、本記事が今後、様々な議論のきっかけになれば幸いです。

 

 

どんな人間が、なぜディベートジェンダー構造に関心を持ったのか

自己紹介

私は日本語準備型ディベートを中学校の部活として始めました。中高と続け、大学に入ったときには少し離れた時期もありましたが、いわゆる社会人になった現在も一つの趣味としてそれなりに楽しんでいます。

少し離れたとは言っても、部活ではなくなったために毎日やらなくなったというだけで、やっぱり試合に出たり審判をしたりはしていました。

ということで、もうかれこれ12年間、私は日本語準備型ディベートに関わっていることになります。

女性ディベーターの少なさに関心を持ったいきさつ

日本ディベート協会(JDA)は毎年春と秋に準備型ディベートの大会を開いています。以下ではこれをJDA大会と呼ぶことにします。

2020年秋のJDA大会ではJDA会員による投票で、下記の論題が採択されました*1

「日本は、国会議員の一定数以上を女性とするクオータ制を導入すべきである」

私は元々この大会に出るつもりでしたが、発表された論題を目にしたとき、昔ある女性ディベーターがファミレスで私に話してくれたことをふと思い出しました。

昔と言っても既に数年前です。決して彼女の言葉通りではありませんが、彼女はこんなことを私に話してくれました。

「女性の政治参加をこの前の大会で論じたけど、観客もジャッジも選手も私たち以外は全員男で、本当にこの人たちは女性の政治参加の重要さだったりを分かってくれているのかな」

数年前に耳にしたこの言葉がなんとなく胸に残り、選手として出場することを決める前にもう少しこの言葉と向き合わなければならない気がしたのです。そうして私なりに考えた結果、まずは女性ディベーターの方にいまのディベートの世界がどう見えているかを聞いてまわることにしました。

話を聞けば聞くほど、少なくない女性の方が、いまの日本語ディベートコミュニティは女性にフレンドリーだと必ずしも言えないと思っていることが分かってきました。そして女性の方々の思っていることを、女性の方々の言葉を、自分なりのやり方で皆に伝えられないかと考えるようになりました。

そうして私は大会に選手として出場し、試合では「いまの日本語ディベート界がいかに女性抑圧的か」を論じました。論題である「国会のクォーター制」の議論はせずにディベート的に言えばkritik、中でもactivisticなk affで戦ったわけです*2

多くのディベーターが試合に向けて政治学の教科書や経済統計を紐解きます。同じように私も試合に向けて「ディベートにおける女性抑圧」について、女性の話を聞き、資料の調査をしました。そして多くのディベーターと同じように、試合でたくさんの反論や疑問をもらうことで自分の主張を再考し続けました。

ディベートにおける女性抑圧」について、この大会の活動を通じて分かったことや感じたことを皆さんにも共有できればと思っています。

 

「女性ディベーター」って誰??

ここで注意して頂きたいことが一つだけあります。それは、この記事では女性ディベーター全員が大変な思いをしているんだと主張するつもりは全くないということです。

読み進めれば分かるように、いまの日本のディベートコミュニティには女性のディベーターが少ないことで「居心地の悪」さや「不安」を感じている女性の方々がいます。それは紛れもない事実であり、この記事のメインテーマでもあります。
しかし、その一方で「女性」の少なさなど気になったことがないという「女性」の方もいました。ディベートコミュニティが抑圧的だなんて思ったことは一度もないという女性の方だっていました。これもまた否定しようのない事実です。

もう一度繰り返しますが、この記事では女性ディベーター全員が大変な思いをしていると主張するつもりは全くありません

私が伝えたいのは「大変な思いをしている人たちがいる。だから皆で何か行動してみませんか」ということです。「女性という自らの性別をきっかけとしたネガティブな感情や問題意識」を持っている女性のディベーターが一定数いたことは事実です。そういった人たちがいる以上は何かできることを考えて、それを実際にやっていかなければならないのではないかと言いたいのです。

 

さて、本題に入りましょう。

読んでいて気になるところがあるかもしれません。その場合は、最後のセクション「色々な反応」を参照してみて下さい。あなたの疑問について何か書いてあるかもしれません。また、気が向いたら是非コメント欄に意見をください。

以下の長い目次は各セクションの要旨で構成されているので、これを読むだけでも何となく内容は把握できると思います。ただ、是非お時間のあるときにはすべて読んでみて下さい。

 

 

諸外国では女性ディベーターを取り巻く問題が認知されており、議論されてきた

パーラメンタリーディベートかアカデミックディベートかを問わず、 欧米圏を中心に諸外国では女性ディベーターが抱える問題について盛んに議論がされてきました。

例えばパーラメンタリーディベートの世界では、スピーチポイントの男女差を取り上げた研究が存在しています。有名校Monashが出すMonash Debating Reviewに掲載されたEmma Pierson "Men Outspeak Women: Analysing the Gender Gap in Competitive Debate"という論文です。

これはパーラメンタリーディベートで試合の勝敗を決するスピーカーポイントについて、EUDC*3とWUDC*4の10年以上に渡るおよそ2000チームのデータ*5を分析することで、ディベートにおける男女のパフォーマンスの差異を検証した論文です。
結論としては、どちらのトーナメントについても男性のほうが女性よりポイントが高く、その差分のラウンド平均は1.2ポイントであったようです。選手が1年長くディベートをやった際の平均的なポイント改善値は1.8であるそうで、1年分以上の差がついていると主張されています。
その現象を引き起こす原因については仮説を出すに留まるものの、女性がディベートを続けづらい要因があるのではないかと議論されています。

 

また、ジャッジがディベーターのスピーチについて、それが「攻撃的(aggressive)」であるという評価をする際にはディベーターの生物学的な性別が大きく影響するという研究もあります。

Nicholas C. Matthews "The Influence of Biological Sex on Perceived Aggressive Communication in Debater–Judge Conflicts in Parliamentary Debate"

 

一方、アメリカのPublic Forumディベートの世界*6では、2019年のトップ30チームつまり60人のうち女性が2人しかいなかったことが「衝撃的である」と指摘されています。

This past summer at the National Speech and Debate Association National tournament, only 2 members from the top 30 teams in Public Forum debate were women.

 

アメリカでは、アカデミックディベートの世界でも女性参加者の少なさやセクシャルハラスメントの問題への高い関心があります

例えば女性参加者の少なさについてはMatzとBruschke "Gender Inequity in Debate, Legal and Business Professions"が、1947年から2002年まででNDTにおける女性ディベーターの参加率は14.2%、受賞者における女性割合は6.2%にとどまり、女性の参加率に改善の傾向は見られないと述べています*7

ハラスメントについても、高校生のディベートコミュニティにおいて、様々な体験を共有するためのセーフスペースがインスタグラムに設けられています

www.instagram.com

 

女性ディベーターへの差別的な言動はイギリスでも実際に見られます。過去に大学ディベートの試合において女性蔑視的な野次が発せられたことがあり、これはindependentにも取り上げられました。

このように海外の国では女性ディベーターの抱える問題が認知され、議論されています。

 

こうした状況を受け、2019年の全米スピーチ大会では議論という営みと女性の関係性について問題提起したスピーカーが優勝しています。深刻な問題を力強く取り扱うその姿勢は圧巻です。是非字幕など駆使しつつご覧になって下さい。

 

日本の準備型ディベートコミュニティでの議論は盛んでない

一方で日本の準備型ディベートコミュニティでは女性ディベーターを取り巻く環境や、彼女たちが抱えている問題があまり認知されておらず、積極的に議論されてこなかったのではないかと思います。

実際、これから書かれる日本語準備型ディベートコミュニティにおける状況は多くの方に知られていませんでした。私も恥ずかしながら知りませんでしたし、私よりも10年ほど長くこの世界にいる方、ディベートに携わっている年数が少ないながらも私より遥かに積極的にコミットされている方、他にも多くの方が「こんな話があったのね」というリアクションでした。

この状況を踏まえ、次のセクションでは女性ディベーターは少ないのだということを数字で再確認すると同時に、私がお話をお伺いできた女性ディベーターの方々が普段何を感じているのかをお伝えしていければと思います。

 

日本のディベートコミュニティでも女性は少なく、それが原因でネガティブな気持ちを抱く女性ディベーターがいる

日本の英語および日本語ディベートにおいて、選手ジャッジともに女性比率は低い

日本の様々なタイプのディベートにおける選手およびジャッジの男女比率を見ていきましょう。

Morookaの"GENDER DIVERSITY IN DEBATE IN JAPAN An Examination of Debate Competitions at the Secondary and Tertiary Levels"*8では2015年から2016年にかけての、日本語と英語の各種ディベート大会における選手ジャッジの男女比率を調べています。調査結果は下記の通りでした。

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調査対象となった各大会の参加層やフォーマットの説明

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各大会の選手の男女比率(予選)

日本語大会: Debate Koishien(中高生準備型), CoDA(大学生準備型), JDA(年齢無制限準備型)

英語大会: HEnDA(高校生準備型), HPDU(高校生即興型), SIDT(大学生準備型), NAFA(大学生準備型), BP Novice(大学生即興型), JPDU(大学生即興型)

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各大会の選手の男女比率(本戦)

日本語大会: Debate Koishien(中高生準備型), CoDA(大学生準備型), JDA(年齢無制限準備型)

英語大会: HEnDA(高校生準備型), HPDU(高校生即興型), SIDT(大学生準備型), NAFA(大学生準備型), BP Novice(大学生即興型), JPDU(大学生即興型)

この通り、男女のバランスがとれているとは言えない状況が目立ちます。特に表の上段5行を占める日本語のディベート大会では顕著です。

英語も日本語も、学年が上がるにつれて女性の比率が下がっていることは注目すべきでしょう。例えば日本語ディベート大会をみると、中学校で50%ほどいる女性選手が、高校になって30%前後、大学に入ると20%程度になります。また日本語については、論文中でも言及されていますがCoDA新人戦とCoDA全国大会を比べることで大学一年生段階における女性の離脱が示唆されます

 

この論文中では日本語の中高生大会の運営に関わる方々が、この調査結果を目にするまで「高校と中学とで女性選手比率はそこまで変わらないだろう」と考えていたことにも触れられています。やはりなかなか把握されていないのでしょう。

ただ、一方で調べてみれば、ディベート界における女性選手の少なさを体感している人たちが一定数いることも分かります。例えば大学英語ディベートに携わる女性ディベーターはこのようなことを書いています。

ディベート界は、やはり女性ディベーターが男性ディベーターより少ない/もしくはディベートを続けないという状況が客観的に見ても、主観的に見ても存在していると思います。この春、他インステの女性後輩と飲んだ時に、「UTDSは女性の先輩がいるから羨ましい。私のインステにも女性の先輩がいてほしかった」と打ち明けられ、とても心打たれたことを強く覚えています。

 

また、学年が上がるにつれて女性が少なくなる現象については、直接的ではないにせよ、関連しているだろう話題に元全日本ディベート連盟代表理事である瀧本哲史が言及しています。

僕は『ディベート甲子園』というイベントで、毎年全国から集まる若者たちの討論ぶりを見ているのですが、中学部門では圧倒的な強さを見せる女子が、高校に上がると『おとなしくなってしまう』ことに歯がゆさを感じていました。弁の立つ女子は敬遠される風潮があるのか、総じて抑制的になってしまうのです。せっかく討論の力を磨いてきたのに、自らその才能に蓋をしてしまうなんて、実にもったいないことです。女子のこのような変化を見るにつけ、自分なりの意見や考えを持って行動する女子や、新しいことをしようとしている女子を、もっと社会全体で応援しないといけないなと思っていました。

ディベートに携わっている人であれば、女性が少ないなと感じたことは多かれ少なかれあると思います。 その感覚は間違っていないのです。

 

さてここまでは女性選手の少なさでしたが、先ほどの論文では女性ジャッジの少なさも指摘されています。下記が各大会におけるジャッジの男女比を同論文より引用したものです。

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各大会のジャッジの男女比率

日本語大会: Debate Koishien(中高生準備型), CoDA(大学生準備型), JDA(年齢無制限準備型)

英語大会: HEnDA(高校生準備型), HPDU(高校生即興型), SIDT(大学生準備型), NAFA(大学生準備型), BP Novice(大学生即興型), JPDU(大学生即興型)

女性ジャッジの少なさはどの大会でも共通してみられます。ここでも先ほどと同様、日本語ディベートの大会では特に少ないことがわかります。中高生向け大会のジャッジのうち11%しか女性がいないというのは、当時実際に試合に出ていた私からしても衝撃的でした。 

 

また女性の選手やジャッジが少ないことから容易に想像がつきますが、あくまでも名前で性別を判断した際、ディベート団体の役員にも女性がほとんどいないことが分かります。2020年9月時点で、各団体の各役員カテゴリにおいて女性の数は下記の通りです*9

  • 全国教室ディベート連盟(中高生の日本語ディベート大会を主催)理事33人中、4人。支部長8人中、1人。論題検討委員会15人中、1人。

 

女性の少なさに対して女性ディベーターが思っていること(実際の声)

さて、記事の冒頭でも述べたように、日本のディベート界の女性の少なさについて考えるうえで何人かの女性ディベーターに話をお伺いしました。また、彼女たちがネット上で意見を発信している場合にはそれについても教えて頂くことができました。この場を借りて、改めて感謝の気持ちをお伝えさせて下さい。本当にありがとうございました。

これらの声は私に非常に影響を与えました。とても正直に言えば、私は実際に彼女たちの口から話を聞くまで、問題の深刻さをわかっていなかったなと思います。すごく悲しそうに、時には少し憤りながら話したり、なんとなくモヤモヤしながら言葉を選んで頂いたり、そういった中で紡がれる言葉には大変な重みがありました。自分は何も気づいていなかったし、考えていなかったなと思わざるを得ませんでした。

こうしたインタビューのような行為を、大会に共に出たチームメイト(私にディベートを教えてくれた張本人)と一緒に実施しました。「ディベートを教えてくれた」と書いていることから分かるように、チームメイトはディベート教育者の一人です。その人もまた、彼女たちの話を聞く中で非常に悩まれていました。

私の聞いた話をディベートに携わる人たちに共有していいかとお聞きしたところ、ぜひ知ってほしいとのことであったので、今回この記事で紹介するに至りました。私がどうこう説明するのもおこがましいので、彼女たちから語られた言葉をそのまま順不同で下記に掲載します。なお、これらの声は私が関わっている日本の日本語ディベートでの女性ディベーターたちのものです。

補足ですが、インタビューの言葉はそのままカギカッコで括って載せている一方で*10、ネット上の言葉は検索できないように少し言葉尻を変えています。また、インタビューの言葉にせよネット上の文言にせよ、ご本人に許可をもらったうえで掲載しております。

 

(男性しかいないコミュニティではやりづらいかという旨の問いに対して)「実際に、その現場を見たときに男の人しかいなくて居心地が悪いなと思ってその空間にいづらくなるっていうのがまず大きくあって。で、(男性しかいないコミュニティに)入りづらいっていうのは、その空間にも入りづらいし、会話とか、例えば運営をしているのであれば運営の話し合いとか、そういう所でもその空間自体に入りにくいなっていうのがすごくまず大きくあって。で、もし仮にそこをクリアして入れたとしても、居心地はやっぱり悪くて、やっぱ半分以下どころじゃないかなりの少数ってなってくると、ちょっと何かするだけでやっぱ目立っちゃうので」

(数少ない新人の女性選手や女性スタッフの方が)本当に好きで来てるのかなっていうのはちょっと不安になるので、一生懸命話しかけるんですけど、それを話しかけるのも、私たち女性スタッフしかいないんですよ。男性スタッフが話しかけてるとこも見たこと無いし、ぽつんとなってしまっている一人っきりでいる女性スタッフが打ち上げにいたときに、違う男性スタッフから「あの子に話しかけてあげて」ってお願いされたことがあって、いやいや話しかければいいのにって思ったんですよ」

男性のジャッジばかりのところに選手として行くのは気が重い。「女のくせに」と無意識にでも思われてしまうのではないかと不安になり、つまらないことに疑い深く、過敏になってしまう。男性ジャッジの目を気にして、質疑で投げかける質問を無難なものに変えてしまい後悔したことがある。疑念が様々な形でプレッシャーになり、それが競争の中で自分を不利にする

(高校生の時に出場した大会での体験について)「特に辛かったのは、女性しか妊娠ができない出産もできないっていうから、だからこそ当事者性を意識してって話を(試合で)したときに、男性の人が誰も手が動かなかったっていうのが凄くショックで、しかも「うーん」っていう反応をされてしまったときには、当事者性、当事者じゃないからわからないって話を当事者じゃない人にしてるのにもかかわらず、それを聞き入れる姿勢も見受けられなかったというところに、子供としてすごくショックを受けて、この人たちの前で議論することに何の意味があるんだろうくらいには思いました」

(小売店の深夜営業を規制する論題における「女性の夜間のセーフスペースとしてのコンビニ」を論じる否定側の議論について)(深夜に恐怖を感じて、夜にも営業しているコンビニに避難することを)実際にやっぱりやったこと、何回もあるんですよ。で、ソレが、本当にあったことで助かりましたみたいなのって、もちろんソレがなかったらどうなったかなんて分からないんで、何とも言えないけれども、確かにあそこにはその深夜営業しているコンビニしかなかったみたいな感じの、話があって。で、その時の怖さもそうだし、どれぐらいあり得るのかみたいなのもそうだし、ソレってたぶん、全然他の(男性の)審判と自分は感じ方が違うだろうなっていうのが、そこにいて凄く思いました

「論題とか、議論の内容による経験とかの違いで、資料の取り方が違うっていうのと、まあ、そこからこうフィードバックが変わってくる、っていうのとがあるのは、間違いないかなと」

(女性ジャッジは数が少ないため、時に孤立ぎみになってしまうという文脈で)ジャッジって、やっぱり判断をする責任ってめちゃくちゃ、重いと思っていて、その重みを、ひとりで、背負うのって結構、怖いというか、まあなかなか大変だなとは思っていて。なにか迷った時とか、なにかあった時とか、自分が何かちょっと、微妙だなみたいな感じのことがあった時なんかにそれを、やっぱり一緒に話をして解消できるとか、あるいはアドバイスをもらえるとか、っていうのとか、あるいは、それでいいんじゃないって言ってもらえるとか、逆にソレはちょっと違ったじゃないとかっていう、なんかそういうのが、あると、凄く続けていきやすいなって思っていて。だけどそういうものがなく、全然違う、なんだろな、対面でカジュアルに話をして解消されるではなく、どっか自分の知らない別のところで、自分の票、ジャッジに何かが言われている状態になってしまうことって結構、怖いというか、まあ怖くはないけど、まあ、ソレを一人で耐え忍ぶって結構、難しいというか

飲み会の場で「女性ディベーターは怖いからな〜」と言われることや、休憩中に男性ジャッジが集まって「女性ジャッジは感情的だから・・・」と話をしているのを見てしまうことがあった

「例えば、もう合わないって分かったり、おかしいと思って合わないなら去れみたいな風潮は絶対になくすべきだと思います。その、あわないなら、じゃあもういいよ、ってなるじゃなくて、合わないからこそ、その空間にいないと新たな視点は生まれないのに。あわないから、じゃあつらいならいなくなればいいじゃんと思ってること自体、もう尖った議論しか生まないんじゃないかなって思うから、なんか、その本当に、特に生徒じゃなくてジャッジが、評価する立場の人がもっと、受け入れる態勢を整えないと、議論を引き入れて正しく判断するってことに繋がらないんじゃないかなって、ちょっと当時思っていました」

 

以下では彼女たちの声をふまえたときに日本の日本語ディべ―トの世界がどのような環境になっているのか、私なりに考えてみたところを書いていきます。

 

女性の少なさは、女性の「居心地の悪」さや「不安」につながることがある。(加えて、ディベート教育の効果を減少させる)

女性の少なさが生みうる、女性にとっての「居心地の悪」さや「不安」

「男の人しかいなくて居心地が悪いなと思ってその空間にいづらくなる」

「半分以下どころじゃないかなりの少数ってなってくると、ちょっと何かするだけで、やっぱ目立っちゃう」

「「女のくせに」と無意識にでも思われてしまうのではないかと不安になり、つまらないことに疑い深く、過敏になってしまう」

「一人で耐え忍ぶって結構、難しい」

先ほどご紹介したこういった声は、女性の少なさに対して彼女たちが思っていることを話してもらったものです。話を聞いている中で私は女性が少ない、つまり彼女たちにとって自分と同じジェンダーを持った存在が少ないということそれ自体が非常にストレスフルなことなのだなと自分なりに受け取りました。

先ほど言葉をお借りした大学英語ディベートに関わる女性ディベーターが関連してこのようなことを話しています*11

これはディベート界だけでなくどのような場所においても見られる現象ですが、人というものは性別を条件としたコミュニティを形成しがちです。どれだけリベラルなディベート界でも、インステの中には女性コミュニティ/男性コミュニティというものがある程度見られるのではないでしょうか。それは特に、1年生や2年生に見られるようにも思います。

性別で自然とグループができてしまう、性別で認識の違いがある、もしくはそのように感じられる。性別というものにはこういった性質があると私だって思います(全然比べるつもりはないのですが、会社の親しい友達との集まりで自分以外女性だと私も多少いつもとは違う感じを覚えます)。私が話を聞いた女性ディベーターが「女性の少なさ」という文脈で「居心地の悪」さや「不安」などを語ってくれたことに、このことは密接に結びついているように思えます。実際に話を聞く中で、私は「女性が少ない」というコミュニティの男女比率構造それ自体が彼女たちにネガティブな気持ちを生じさせることに大きく寄与してしまっているのではないかと感じました

また、構造から引き起こされるネガティブな感情は、構造ではなく完全に個人に帰属させられる問題をも生じやすくしてしまうでしょう。「居心地の悪」さや「不安」を覚えているときには人間は傷つきやすくなるだろうと私は個人的には思います。他人の言動に敏感になる。だから、心理的な安全が保障されている場所にいるときよりも繊細になって、結果的に誰か特定の個人に傷つけられることも増えてしまいうると想像します。こうして、構造は色々な問題を加速化させている可能性があります

もしも構造が生み出してしまう感情があるのならば、例えば「みんなが他人を傷つけないようにすれば解決する」とか「おれは誰かを傷つけた覚えがない」とか、そういう話は少し考え直されてもいいのではないかと考えます。他人を傷つけているのがあなたではなく、あなたがいる世界の構造であるならば、どんなに自分の言動を振り返っても、なぜある人が傷ついているのか分からない場合もあるのではないでしょうか。振り返るべきは、自分がいる世界がどう出来上がっているかなのです。私自身、構造それ自体が問題を引き起こしてしまうことにこれまで無自覚であり、そのことを今回の機会を通じて深く反省しました。

 

残念ながらハラスメントの話だって耳にする

もちろん、上の構造の話は自分の言動を振り返る意味がないと言っているわけではありません。誰かを傷つけてしまったのであれば、それはきちんと反省すべきだし、常に気をつけるべきです。

残念ながらそういったこともいまのディベートコミュニティにはあると聞きます。先ほどご紹介した声の中にも、特定の言動に結び付いたものがありました。

飲み会の場で「女性ディベーターは怖いからな〜」と言われることや、休憩中に男性ジャッジが集まって「女性ジャッジは感情的だから・・・」と話をしているのを見てしまうことがあった

また、実際にひどいディベート教育者がいたという話も聞きます。

とはいえ、私の目線からはわからないので、他のひとに話を聞いてみることにしました。結論として、「女性のほうが議論に向いている」「女性は反駁じゃなくて立論を読むだけにしたほうがおしとやかでよい」といった言説が今もなお跋扈していることは、極めて悲しいことに事実であるようです。前田健太郎の『女性のいない民主主義』の記述が脳裏をよぎります。しかもこれら発言が学校現場で教師によって為されることもあるというから、義憤に駆られます。これをどう改善すればよいのかというのは、かなり根深い問題なのでとても難しく感じるのですが、自分の感知できる限りでも雑な言説に抗っていきたいところです。

私は実際にみたことが無いのですが、そんな人たちはもうディベート以前の問題なわけで、深く反省して頂きたいです。

 

ジェンダー構造が損なわせるディベート教育の効果

いまのディベートが抱える歪んだジェンダー構造、特にジャッジのそれはディベートの教育効果にも影響を与えるでしょう。この話は正直、前の部分で話したような女性ディベーターが構造やハラスメントから実際に苦しんでいることに比べたら、全然重要ではないんじゃないかなとすら思ってしまいます。ただ、実際ディベートが世の中に還元できるものを検討した時に、この話も重要であることは確かなのでしっかりと私なりに説明させて頂きます。

端的に言えば、審査員の偏った男女比率は教育から女性の視点を欠落させると同時に、性規範の固定化も招いてしまうと考えられています。

女性視点の欠落

ジャッジは試合の判定やフィードバックを通じて、選手の知識や考え方に影響を与える存在です*12私は性別の違いが判定やフィードバックの違いを生むと考えます。だから、ジャッジのジェンダー構成が偏っていれば、コミュニティがディベート活動の末に得る成果だって偏ってしまうと思います

例えば代理出産についてディベートを実施する際に女性ジャッジが10%しかいないのと、50%いる場合、70%いる場合とでは選手や聴衆、ひいてはジャッジも含めたコミュニティ全体が得る学びというのは全く違ったものになるのではないでしょうか。実際の声にもありましたが、深夜営業の論題だってそうです。クォータ制だってそうでしょう。

また、議論の余地はあるのでしょうが、男女で政治的なイデオロギーの選好に差があるという研究も存在するわけで、そうなればやはりどのようなテーマであっても*13そこに女性が10%しかいないのと、50%いる場合とでは得るものが変わってきてもおかしくないわけです。

このようにして、ディべ―トの教育効果の一つとして謳われる「リサーチや試合を通じた知識、良識の醸成」が女性視点の欠落したいびつな形で行われてしまう恐れがあります。

性規範の固定化

ディベートには社会に蔓延る性規範、ジェンダーロールを打破するための役割があると論じられています。それは特に、女性に対して沈黙を望む多くの男性優位文化に対するカウンターとしての文脈で語られます。

例えばCatherine H. Palczewskiは"BEYOND PEITHO: THE WOMEN'S DEBATE INSTITUTE AS CIVIC EDUCATION"で下記のように論じています*14

こういった留保はあるが、ディベートやスピーチにおいて、それがどのように性/ジェンダー化されているか、また、そこに参加している女性が彼女たちの多様な市民参加を妨げる性/ジェンダーの形をどのように変えられるかに注意できる限り、私はディベートやスピーチを市民教育の強固な形として提唱する。ディベートとスピーチは、女性の市民教育にとって変革を起こすものとなりうる。なぜならディベートとスピーチは、純粋で敬虔で、家庭的で、従順な、多くの場合、沈黙と結び付けられる女性らしさを演じるという社会的な制約から女性を解放するからだ。...もし私たちが性/ジェンダー、人種の境界に沿った参加の平準化を達成したら、ディベートとスピーチの形や機能に大きな影響を与えるだろう。

日本の言い回しには「おしとやか」とか「男を立てる」とか、書いていて頭の痛くなるような表現が存在します。これらは女性に「沈黙」というジェンダーロールを押し付ける態度の現れだと言えます。今では徐々に変化してきてはいるものの、依然として女性の政治参加率は低いし、そうでなくても身近なちょっとしたことで女性に対する抑圧を感じる経験が女性はもちろん、男性にだってあるのではないでしょうか。

ディベートではどんなジェンダーの人間であれ、どんなセクシュアリティの人間であれ、平等にスピーチをすることが許されています。あなたが誰であっても、試合に出ているのであればみんなと同じ発言権があります。沈黙を押し付ける社会とは異なる場所がそこにあり、それはまた、そのような社会を変革する力を養えるポテンシャルを秘めた場所でもあります。日本のディベートがもし日本の女性をエンパワーしうるのであれば、それは素晴らしいことのはずです。

しかし、いまの日本のディベートはそれどころか、

「この人たちの前で議論することになんの意味があるんだろう」

と女性に言わせてしまうのです。これでは真逆です。沈黙というジェンダーロールを加速させる一方です。

  

女性の少なさを引き起こす要因の一部として、女性離脱の悪循環やディベートに対するイメージのジェンダー化が考えられる

ではここまで述べてきたような問題を引き起こす「女性の少なさ」は一体何によって生じているのでしょうか。

日本における日本語準備型ディベートでは年が上がるほど女性参加率が減るという現状がありました。中学校で50%ほどいる女性選手が、高校になって30%前後、大学に入ると20%程度になるという話です。現在の状況を引き起こす要因を特定するには、特に中学から高校に進学する段階を中心に各フェーズでの離脱者がどのような考えを持っていたのか、どのようなディベート経験をしたのか、なにかしらの手段で確かめていく必要があるでしょう。

残念ながらそのようなことは日本ではまだ出来ておらず*15、私も確かめる術をまだ考えられていません。

今後の議論のためにも、今回は一旦2つの仮説的な要因――女性離脱の悪循環、ディベートのイメージのジェンダー化を挙げます。言うまでもありませんが、これらは正しかったとしても、原因の一部に留まる可能性があります。今後コミュニティで検証を進め、より多くのより正しい要因を浮かび上がらせることが求められます。

仮説A. 女性離脱の悪循環

まず、女性離脱が悪循環に入り込んでいることは容易に想像できます。再度、英語ディベーターの女性の言葉を借ります。*16

となると、このコミュニティの中でディベートの大会に出たり、先輩からエジュケをしてもらうことも必然的に多くなるのに、女性が少ないと、女性ディベーターにはコミュニティが存在しないから、先輩と仲良くしたり、大会に出場するハードルも男性ディベーターより高くなるだからこそ、女性が抜けていくと、その流動が止まらず、結果的に男性ディベーターとも垣根を超えて仲良くできる幸運な女性ディベーター以外は残ることができなくなってしまう。だから、インステに女性が少ないことは問題となるし、女性のコミュニティが存在しないと、女性は女性が抱える問題をディベート界へ発信することが困難となったり、自身をディベート界へと引き止めてくれるような居場所がなくなってしまうのだと思います。

私が直接話を聞いた女性ジャッジの中には、「女性ジャッジはなかなか仲間を見つけづらく孤立してしまう。もしかしたらそれが原因で来なくなってしまったのかもしれないと思われる女性だっている」と仰っていた方がいました。また、スタッフの女性からも、自分は女性であるというだけで少し浮いている感じがするという話は出ました。そして、直前に引用している女性英語ディベーターの方は、選手の立場から問題提起をしています。

女性の少なさが女性の孤独感を招いてディベートから距離を置かせてしまうという循環構造が、ディベートコミュニティの選手、スタッフ、ジャッジどのようなグループでも起こっていると考えられます

仮説B. ディベートのイメージのジェンダー

そしてもう一つの要因として私が挙げるのは、ディベートのイメージのジェンダー化です。要するにディベートは男性のものなのだと皆に思われてしまっていないか」ということです。

これについてはアメリカの議論が参考になります。ここではHolly Jane Raiderらの“Women in High School Debate”*17というアメリカ高校ディベートにおける女性参加率の低さを研究した論文を見ていきます。1989年のかなり古い論文ですが今でも一考の価値があると思います。

2つの異なる話が出てくるため、順番にいきましょう。

仮説B-1. 社会が、ディベートは男性のものだと思っている

まず1つめの話です。これは先ほども述べたディベートジェンダーロール打破の可能性にも深く関わるのですが、女性はディベートをやることを社会に期待されていないためにディベートに携わりづらいのではないかということを主張しています*18

社会的に植え付けられた価値観が、高校ディベートへの女性の参加率の低さに寄与している。ジェンダー・バイアスとディベートとの関係については、ManchesterとFreidlyによって研究されている。この研究では、ディベートは[社会で]男性的な活動と認識されているため、男性がディベートに参加する際には彼らがジェンダーロールの固定観念や期待に沿っている[とされる]と結論づけています。女性のディベート参加者は、ジェンダーロールの固定観念や期待に沿わないことになるため、ジェンダーに関連した障壁をより多く経験しています要するに、"nice girl"は男性と競争したり、男性と競争したりせず、自己主張もせず、特に軍事問題に関連した政策議論に参加することを期待されていないのである。むしろ、"nice girl"はチアリーダーになったり、外国語クラブに入ったり、学生自治会に参加したりするべきだとされているのです。

こういった話がいまの日本の中高生の部活選び、大学生のサークル選びにどこまで当てはまるのかは正直分かりません。ただ、記事前半で紹介したように日本でも元全日本ディベート連盟代表理事である瀧本哲史がこういった可能性に言及しています。*19

僕は『ディベート甲子園』というイベントで、毎年全国から集まる若者たちの討論ぶりを見ているのですが、中学部門では圧倒的な強さを見せる女子が、高校に上がると『おとなしくなってしまう』ことに歯がゆさを感じていました弁の立つ女子は敬遠される風潮があるのか、総じて抑制的になってしまうのです。せっかく討論の力を磨いてきたのに、自らその才能に蓋をしてしまうなんて、実にもったいないことです。女子のこのような変化を見るにつけ、自分なりの意見や考えを持って行動する女子や、新しいことをしようとしている女子を、もっと社会全体で応援しないといけないなと思っていました。

また、先ほど紹介したMorookaの論文にも、女性ディベーターがなぜ英語ディベートでは日本語ディベートに比べ多いのかを社会のジェンダー意識から説明しようとする一節があります*20

日本における競技ディベートの注目すべき特徴の一つが、日本のディベート・コミュニティ内のジェンダーダイナミクスに興味深いねじれを与えている:英語ディベートの長年の人気である。長友(2016)*21が指摘しているように、日本人は英語を女性のキャリアアップや自己啓発のための重要なスキルとして捉えていることが多い。英語を学ぶことは、学問分野としても外国語としても女子学生の間で非常に人気があるため、日本におけるジェンダーロールはグローバルなジェンダーロールとは異なる可能性がある。

いずれにせよこの点については、女子生徒の部活選び等を中心に学校生活におけるジェンダー意識の調査などをみる必要があるでしょう。いまはまだそこまで出来ていません。ただ、「ディベートは男性のものであると社会に思われてしまっている」可能性は大いに検討の余地があるでしょう。

仮説B-2. 女性の新規参入者が、ディベートは男性のものだと思ってしまう

次に、ジャッジやコーチにおける女性の少なさが、新しくディベートコミュニティにやってきた女性に「ディベートは男性優位の文化だ」と思わせてしまう可能性です*22

ディベートコミュニティに蔓延している[男性多数の]構造が、中学3年生の女子生徒のディベート参加を阻んでいる。勧誘の方法や最初の[女子生徒との]接触は、知らず知らずのうちに[ディベートが]男性中心の活動であるという第一印象を与えてしまう可能性があります。さらに、ほとんどのディベートコーチは男性です。このことは、ディベートは男性によってコントロールされている活動であるという社会的な意識を、ディベートに参加しようとしている学生たち相手に補強してしまう。...問題は女性ディベート選手の参加初期段階における離脱要因を特定することである。男女同数の初心者が参加したとしても、女子生徒のディベートに対する認識は、この身近な仲間の男女比で決まるのではない。...このことは、初心者ディベートの伝統的な構造を考えれば簡単に理解できるだろう。多くの場合、初心者を指導したり審査したりするのは、ほとんどが男性で構成されているバレーズ・ディベート・チームである初心者はまた、実際の試合を見てディベートを学びます。このように、ロールモデルとなるのは、すでにその活動に参加し、その価値観に定着している人たちである

女性が少ないと悪循環に陥るという話を先ほどしましたが、それは仲間が作れないためだという理由付けでした。そこで問題になるのは、仲間となりうる同世代における女性の少なさでしょう。

今回の話はまた別の話です。ここでは女性がディベートコミュニティにやってきたときに、ジャッジやコーチといった階層の女性が少ないがゆえに生じる問題を扱っています。

個人的にこの仮説は大いに妥当であると考えています。というのも、中学世代では50%を占める女性が減っていくことは、同世代において女性が少ないことで生じる孤独から離脱するという仮説からだけでは説明しにくいと考えます(もちろん、ディベートコミュニティにおいて中学生や高校生が横のつながりを作れていないのではないかという説も検証されるべきです)。

なお、この論文ではこのあとに女性のロールモデルおよびメンターの重要性を改めて説いています*23

女性のロールモデルとメンターの重要性を過小評価すべきではありません女性のメンターやロールモデルの存在は、女性の参加者やコーチ、ジャッジの数との間に相関関係があることが証明されています。初心者の女性ディベーターはロールモデルが少なく、結果的に男性ディベーターよりも脱落する可能性が高い。結果的に高校のディベートでは女性の脱落が絶えない悪循環になっている。

女性の数を増やすことは女性のロールモデルやメンターの存在を保障するうえでも大事だということです。

 

さて、ここまでなぜ女性ディベーターが少ない数に留まってしまうのかという問いに対する仮説的な答えを考えてきました。次のセクションではこれらの議論をもとにして、女性ディベーターを増やすためにどんなことができるのかを議論していきたいと思います。

 

要因の仮説を基に、解決策として5つのアクションが考えられる

先ほど考えた、女性ディベーターの少なさを生む要因の仮説を基に実際の解決策、すなわち女性ディベーターを増やすための具体的な方法を検討してみましょう。

なお、検討するにあたって、同様の状況にあるアメリディベートコミュニティのディベーターにredditで相談をしてみました。「アメリカでは女性ディベーターを増やし、また定着させるためにどのような試みがなされているか」という質問を投稿しています。

これは実際のところ成功でした。というのも、多くの有用な回答が集まったからです。ここからはその答えをふまえての議論になっていますが、興味のある方はredditも是非ご参照ください*24

 

仮説A(女性離脱の悪循環)に対する解決策の案

女性が少なくなり、また女性がいづらくなってやめてしまい、また少なくなり……という悪循環に対しては例えば2つのやり方がありえます。「孤立を感じているだろう人がいたら、性別やら見た目やら出身やら何であろうと垣根を超えて、声をかけてみる」こと、そして「ディベートコミュニティとのつながり作りを支援するような団体を作る」ことです。順番に見ていきましょう。

 

孤立を感じているだろう人がいたら、性別やら所属やら出身やら何であろうと垣根を超えて、声をかけてみる

孤立を感じているかもしれない、居づらいと思っているかもしれない、そんな人に対して声をかけてみる。これは明日から、いや今この瞬間からやっていけばいいことだと私は思います。性別だけでなく出身や所属といった色々なカテゴリーが越えられていくべきです

個人的な経験になってしまいますが、私は大学一年生の頃にディベートはもう一旦いいやと思いしばらく距離を置こうとしました。しかしそれも束の間、社会人でディベートをやっていた方に誘ってもらい、大学一年生のときにJDA大会に出場することとなったのです。そのあとも何度か誘っていただき、選手としてだけでなくジャッジも務めるようになって、今ではこうしてブログも書いているわけです。竹久さん、石橋さん、本当にありがとうございます。

この体験もあって、私はコミュニティにおけるつながり――それを友達と呼ぶか知り合いと呼ぶか、はたまた趣味仲間と呼ぶのかは分かりませんが――ディベートを続けていくうえで大事だなと感じています。これは女性に限らずそうなのではないかと思います。

気心の知れた友達を持つとまではいかないにせよ、会場に行っても話す相手がいないとか、審判だけやって帰るとか、そういう状態ではやはりやめてしまうことも大いにあるのかなと思います。

これは別に、みんなが大学の明るめのサークルみたいになっているべきだとかそういうことが言いたいのではありません。人とつながりを持たないほうが気楽だという人も多くいるでしょう。

でも、話し相手や知り合いがいたら楽しいという人や、この記事でも述べたようなそもそもコミュニティの構造からして孤立を感じやすい人もそれなりにいるはずです。もしそういう人が寂しいとか居づらいとか思っていて、もしそのことに気づくことができたなら、話しかけてみたらいいんじゃないかなということです。気が合えば大会に一緒に出てみたらいいし、会場でおしゃべりしてみてもいいし。そういうことです。

 

ディベートコミュニティとのつながり作りを支援するような団体を作る

これは割と大がかりな話ですが、まずは紹介させてください。

先述のredditにて紹介してもらいましたが、アメリカにはいわゆるマイノリティの方々に対してメンターシップを提供するつまりメンターとなるディベーターを紹介する団体が存在します

そういった団体がいくつあるのかは分かりませんが、"W.IN Debate"と"Beyond Resolved"という2つが代表例だそうです。

詳しく確認できたわけではないのですが、どちらも高校生による高校生のための団体だと思われます。そして希望者に対してメンターの紹介や、マイノリティと言われる方々向けの大会(当然ジャッジもそういった人々で構成されている)*25やレクチャーの開催をしているようです。

こういった団体の運営は選手がやめてしまわないようサポートするだけでなく、現役を引退したディベーターが「メンター」や「アドバイザー」といった形でコミュニティに関わり続けるのにも貢献するのでしょう。

これらのグループがどのようにリソース――メンターや運営メンバー、そして運営資金(!)――を確保しているのかは分かりませんが、ディベートの社会的意義が日本に比べてかなり広く認識されているアメリカでこういった団体が存在できることは自然なことのように思えます。

 

仮説B(ディベートのイメージのジェンダー化)に対する解決策の案

ここではB-1,2という2つの仮説があったので、それぞれについて議論をしていきます。なお、全体像としては下記の通りです。

仮説B-1「社会が、ディベートは男性のものだと思っている」の解決策案

女性にとっての議論の必要性を社会に向けて発信するなどの活動を通して、議論教育団体が女性と議論/ディベートの関連づけのされ方を変える

仮説B-2「女性の新規参入者が、ディベートは男性のものだと思ってしまう」の解決策案

1. 公式の大会およびイベントにおいて女性のメンバーが多くの人の前に出る機会を増やすことで、女性が活躍していることを伝える
2. 女性向け大会やレクチャーなど女性のためのイベント開催を通じて、アクティビティの男性占有感を減らす

順番にみていきましょう。

 

女性にとっての議論の必要性を社会に向けて発信するなどの活動を通して、議論教育団体が女性と議論/ディベートの関連づけのされ方を変える

社会にバイアスがあるのであれば、議論教育団体がそれを正そうとしてもいいのではないでしょうか。

ディベート大会の始まりや終わり、もしくはお昼休みには権威のある方がスピーチをすることがありますが、そのような場で社会における女性と議論/ディベートの結び付けられ方について話されてもいいでしょう。また、教育団体がディベート普及活動の一環としてそのような話をする講演を開いてもいいと思います。

いずれにせよNADEやCoDA、JDAといった私の知る範囲での日本語ディベート団体は女性の少なさという問題にもう少し明示的に取り組んでみてもいい気がします。数少ない役員の女性の方がそのような問題を意識していることは私も十分に存じ上げておりますが、実際に団体のアクションとして何かが行われているのを見た記憶はあまりありません。

こういった活動は、いま現にディベートに取り組んでいる女性にもエールを送ることになるのではないでしょうか。

また、前述したハラスメントへの対処も、こういった団体がトップダウンで進んで実施すべきです海外の団体はハラスメントを取り扱う委員会を作って、注意の呼びかけ、相談窓口の設置を実施しているそうです少なくとも日本語準備型ディベートでそのような話は聞いたことがありません

 

公式の大会およびイベントにおいて女性のメンバーが多くの人の前に出る機会を増やすことで、女性が活躍していることを伝える

女性が少ない要因の仮説B-2で紹介した論文の一部をもう一度見てみましょう。

ディベートコミュニティに蔓延している[男性多数の]構造が、中学3年生の女子生徒のディベート参加を阻んでいる。勧誘の方法や最初の[女子生徒との]接触は、知らず知らずのうちに[ディベートが]男性中心の活動であるという第一印象を与えてしまう可能性があります。さらに、ほとんどのディベートコーチは男性です。このことは、ディベートは男性によってコントロールされている活動であるという社会的な意識を、ディベートに参加しようとしている学生たち相手に補強してしまう。...問題は女性ディベート選手の参加初期段階における離脱要因を特定することである。男女同数の初心者が参加したとしても、女子生徒のディベートに対する認識は、この身近な仲間の男女比で決まるのではない。...このことは、初心者ディベートの伝統的な構造を考えれば簡単に理解できるだろう。多くの場合、初心者を指導したり審査したりするのは、ほとんどが男性で構成されているバレーズ・ディベート・チームである初心者はまた、実際の試合を見てディベートを学びます。このように、ロールモデルとなるのは、すでにその活動に参加し、その価値観に定着している人たちである

男性しか目にしないのだから、ディベートも男性のものだと思われてしまうよねという話なわけです。

特定の職業における就業者の性別の割合が、若者がその職業に対して抱く感覚――自己効力感(自分がその職業において活躍できると思う感覚)、選好等に影響を与える研究は多くあります。例えば日本の研究にはこのようなものがあります。

小久保みどり「大学生の職業選択のジェンダー差」 

こういった研究によれば、職業選択の文脈ではありますが、集団の性別割合はその集団における自分の未来を想像するときに影響を与えるとのことです。

そうであれば、ディベートのコミュニティが男性しかいないように見えていたら、女性ディベーターは自分のポジティブな像を想像しづらくなってしまいうることもあるでしょう。

このような状況があるとすれば、ディベートコミュニティという集団の実際の男女割合はすぐには変えられなくとも、女性の活躍を積極的に伝えることは有効なのではないでしょうか。公式の大会やイベントにおいて女性が多くの人の前に出る機会を増やすこと――それこそ先ほどの女性と議論の関わりを考えるスピーチ等といった活動を女性の方が行うこと等は、一つの方法としてあるでしょう。

 

女性向け大会やレクチャーなど女性のためのイベント開催を通じて、アクティビティの男性占有感を減らす

日本の大学英語ディベートのコミュニティでは、女性向けの大会があります。下記リンク先の大会は少なくとも5,6年前ほどから毎年開かれているようです。

Aoyama-Womens-Cup-2020(Facebookリンク)

また海外でも、先ほど紹介したような学生団体がいわゆるマイノリティと言われる方々向けの大会や講座を運営しています。

男性しかいない現場では居づらいような気持ちを覚える方でも、そのようなものであれば参加しやすいのかもしれません。こういった大会などのイベントを女性向けとして、もしくは何らかの属性の方に向けて実施することはディベートが誰にとっても開かれたものであるうえで重要でしょう。

また、このようなイベントはそこに参加する人たち同士でつながりを作りやすいということがreddit上で指摘されていました。自分と同じ属性の人が周囲にいないことでなんとなく孤立感を覚えてしまうというようなことへの解決策としても機能するはずです。

 

さて、以上が今後実践できる具体的なアクションの例です。読んで頂ければ分かるように、私一人が考えつくようなアイデアはたかが知れているわけです。ただ、ここで出した案が今後のコミュニティでの議論の肥やしにどうにかなればという思いから、僭越ながら検討をさせて頂きました。もし上記のアクションが何かしらの団体によって本当になされていく場合、手伝えることがあったら是非言ってほしいです。

そして、これをきっかけに議論がされていくことが重要かと思います。学年年齢、性別問わず、色々な人が色々な場所で話し合ってみてほしいです。そのような議論を通じてしか、状況は変わっていかないと思います。

 

色々な反応

ここでは、「女性ディベーターが少ないのは問題だ。傷ついている人がいる。(また、教育的効果も損なわれている。)だから増やしていくべきだ」という話をしたときに実際にされた反応について応答をしていきます。

女性が何をどう感じるかの問題について、女性以外からの問題提起をすべきではない

私は性自認が男性であり、家族や友達といった周りの人からもそう認識されています。

そのような私が女性の話を聞いて、「彼女たちは傷ついているんだ、だから何かを変えなければならないのだ」と主張し始めるのは、たしかに様々な問題を孕んでいるでしょう。女性たちの多様性をなかったことにしうる可能性に始まり、そもそも他者についての理解とは何なのか*26といった素朴な疑問まで、色々な論点があるかと思います。

その中でも頻繁に、特にある女性からも私が問われたこととして「代弁するという行為の是非」があります。

突然硬い言い方にはなってしまいますが、これは社会の抑圧に対して政治運動を始めるのは当事者であるべきだという議論として、女性や黒人、障がい者といったいわゆる「マイノリティ」と呼ばれる方々の権利を考える際に必ず取り扱われる事柄です。もしご興味のある方がいらっしゃったら、こんなへんぴな場所にある記事ではなく、たくさんの信頼できる論文や本を読んでください。

一旦ここでは「代弁するという行為の是非」に関する、私なりの考えを書いておこうと思います。

まず、私は自分のことを「代弁者」だとは全く思っていません*27。私は「女性が「居心地が悪」いとか「不安」だと思う環境に気づかないまま、傷ついている人を見つけられなかったうちの一人」として、より強い言い方をすれば「構造的な暴力をふるってきた加害者側の一人」「構造的な問題に気付かずに過ごせる特権を得てきたうちの一人」として、自分のことを当事者であると認識しています。そして、こういった類の一人の当事者として、私は私自身の主張として問題提起をしています。

私自身、本当にこんなことをしていていいのかという不安はあります。

ただ、それでもある女性ディベーターの方が私に「きっと勇気を与えられると思いますよ」と言ってくれたことがきっかけで今回のことは始まりました。別の方は「男性が考えることに意味がある」と仰ってくれました。

また、男女問わず多くの「(リベラル)フェミニスト*28」と呼ばれる人たちが「男性の側が積極的に考え、参加することの意義」を認めていることも私にとっては勇気になりました。

この記事を読んだ方、特に男性の方のためにそれらの言葉を引用させてください。

女性英語ディベーター
「性別関係なく、ディベート界に何かしらの思い入れのある人たちは、このような現状を意識し、何かしらのアクションをとる必要があると思います」*29

Chimamanda Ngozi Adichie

ジェンダーについて考えようとしない あるいは気づかない男性が多いことが ジェンダー問題の一部なのです 多くの男性が 私の友人のルイのように 今は何の問題もないと言い 何も変えようとしないことが問題なのです...略...「フェミニスト」という言葉を 曾祖母は知りませんでしたが 体現していたのではないでしょうか 多くの人がこの言葉を取り戻すべきです フェミニストの 私流の定義はこうです 「フェミニストとは 男性あるいは女性で 『今でもジェンダーの問題は 存在するから 正し 改善しなければならない』 という人のことである」 私の知るフェミニストの鑑は 私の弟のケネです 優しくて ハンサムで 素敵な男性です しかも とても男らしいんですよ*30

Bell Hooks

「男性が性差別や性差別主義的な抑圧を維持し、支援している主体者である以上、男性があえて自らの意識や社会全体の意識を変革する責任を担ってくれないかぎり、性差別や性差別主義的な抑圧の根絶が実現するはずはない。人種差別に反対する闘いが始まって100年以上たった今でも、かつてないほど多くの非白人が、人種差別に反対する闘いにおける白人が演じなければならない主たる役割を訴え続けている。...略...特に、同胞としての男性の性差別主義を暴き出し、立ち向かい、反対し、変革していく領域では、男性はフェミニズムの闘いに想像を超える大きな貢献ができるはずである。フェミニズムの闘いにおいて、男性が責任を等しく担う意欲を示し、いかなる仕事でも必要であれば引き受けてくれるなら、女性たちはそうした男性を闘いの同志として受け入れ、その革命的な取り組みを認めなければならない。」*31

 

女性に限らず、色々な属性の人がいるべきだ

ご指摘ありがとうございます。そのとおりです。経営者も平社員も動物園職員も医療従事者も大学生も公務員も官僚も教師もタバコ屋も俳優も工場長もパイロットも郵便職員もYouTuberも、どんな人だっているべきです。ジャッジングプールは社会の写し絵であるべきです。

今回はその中でも女性という問題にフォーカスして議論をしています。それは私が今季出会った論題が「クォータ制」であったことや、ファミレスで偶然女性ディベーターの話を聞いたことや、女性ディベーターに関する先行研究が多くあったことなど、様々な出来事の積み重ねで偶然そうなっています。我々はもっと色々な問題に取り組んでいくべきだと思います。みんなで取り組んでいきましょう。

 

まずはディベートをやる人を増やさないと始まらないのだから、競技ディベートの普及こそが最優先課題だ

女性が少ないという状況を話すと、競技ディベートをやっている人がそもそも少ないこと(の方)が問題だと言う人がそれなりにいました。

これについては、どちらの問題も同時に考えていかなければならないという当たり前のことが答えなのであって、どちらの方が優先されるといったことは無いと思います。我々は競技人口全体の少なさも、女性の少なさも、どちらにも取り組んでいくべきです。

たしかに我々コミュニティだって無限のリソースを持っているわけではありません。お金も時間も人も足りないと思います。でも、だからといって最初から女性の少なさを議論しないで済むというのはおかしな話です。例えば2つの問題に対してそれぞれ解決策を議論したうえで初めて、取り組む優先順位をつけていけばいいはずです。

競技人口の少なさは、女性の少なさについて考えなくていい理由にはならないと思います。

 

ジャッジングが性別(審判の属性)に影響されるだなんて主張は、ディベーターとして受け入れられない

ジャッジングは性別を始めとした属性に影響されるのだという見解を、審判の公正さを根拠に試合をするディベーターが認めるわけにはいかないという主張をききました。

以下のブログでもそのような話がされています

このような意見をもう少し詳しく知るために、このブログの一部を引用します。

論題と関係するジャッジの属性を一般的に問題とすることを何らかの理由で正当化することは適切ではありません。なぜなら、ジャッジの個性(思想信条)ですらない「属性」が議論の内容に関係して判定を左右してしまうという想定は、当該属性によって一定の判断傾向が必然的に導かれるという誤った理解を前提にしているからです。また、上述した「個人的関わり」の忌避との対比で言えば、属性を問題とすることは、ジャッジが不正を働く可能性への疑念ではなく、ジャッジが真摯に判断しようとしてもなお誤りがあるという、判断内容や能力に対する疑念に踏み込んでジャッジの判定の価値を切り下げることであり、選手の属性によって議論評価を変えるのと同様、許されるべきでないということができます。
加えて、一旦ジャッジの属性を問題として公平性や中立性を論じ始めてしまえば、「正しい判断を期待できるジャッジ」は観念できなくなります。男性ジャッジが偏っているとすれば、女性ジャッジもまた偏っているのではないでしょうか。LGBTQのジャッジであっても同じです。

こういった方々の意見の前提には「ジャッジは論理的もしくは客観的に試合を処理すれば、一つの正しい解を導き出すことができる」という、まるでロボットを相手にしているかのような幻想が潜んでいるように思えます。こういった主張は「正しい」とか「誤り」とかいう概念をジャッジングに持ち込みます。

なるほど確かにあまりにも議論の評価に論理的な一貫性がなく支離滅裂な判定に対してであれば、我々は「それは考え直したほうがいいのではないか」と言う権利を持っているでしょう。しかし、試合の議論はどこまでいっても最後はジャッジの価値観で判定されるわけです。微妙な試合になればなるほどそうだということは、多くのディベーターが知っていることでしょう。そうなった時に、試合中の材料同士で論理的整合性がとれているのであれば、どんなジャッジングも間違いではないはずです。

一つの正しいジャッジングなど存在するわけがありません。ホームレス経験をした人と一流企業に務め続けている人とが同じジャッジングをするでしょうか。戦地から帰ってきた人と戦後の日本で戦争を経験しないまま暮らし続けている人とが同じジャッジングをするでしょうか。

では、女性と男性とは同じジャッジングをするでしょうか。身体に関する経験も、夜道を歩く時の感覚も、周りの人に言われてきたことも、色々なことが違うかもしれないし、実際違っているだろうのに、同じジャッジングをするでしょうか。できるでしょうか。すべきでしょうか。

「一旦ジャッジの属性を問題として公平性や中立性を論じ始めてしまえば、「正しい判断を期待できるジャッジ」は観念できなくなります」

先ほど引用した部分にはこんな記述が含まれていましたが、私から言わせてみれば「正しい判断を期待できるジャッジ」なんてそもそも奇妙なアイデアです。そんなものはハナから観念できないでしょう。そもそも「判断」などというものに正しいも誤りもないのです。

そして、だからこそジャッジの多様性は確保されていないといけないのです。ジャッジが自分の意思で中立を保つ必要があることは否定しません。それだって大切なことです。そりゃそうです。でも究極的には正しさなんてどこにも存在しないのです。だから、「全体」として「多様性」を保つ努力も、「個人」として「中立」を保つ努力も、常にどちらもやっていかないといけないのです。

 

私は男だけど、誰かを傷つけた覚えはない。責めないでほしい

「女性ディベーターの少なさ」から生じる様々な状況を指摘することは、誰かを責めているわけではありません。別に誰が悪いとか言っているわけではないのです。我々が気がついたらこうなってしまっていたわけで、あなたが悪いとか、男性が悪いとか、そういうことを言っているわけではないのです。私は、この記事で何度も引用させてもらっている英語女性ディベーターの言葉に何度も救われました。*32

私は決して誰かを責めたいわけではありませんし、この問題に何か画期的な解決策を見いだせるわけでもありません。でも、性別関係なく、ディベート界に何かしらの思い入れのある人たちは、このような現状を意識し、何かしらのアクションをとる必要があると思います。

あなたがこれまで周囲の人を傷つけないように努力してきたことは本当に素晴らしいことです。それができない人はディベートの世界に限らず、この世界にたくさんいます。その中で優しい人間であれたことは本当に誇って良いことだと私は思います。

ただ、もう一つのお願いとして、今度は「自分が傷つけないこと」だけではなくて「何かが原因で『居心地の悪』さや『不安』を抱えている人がいること」に目を向けてみてもらえませんか

 

女性の比率を増やしたいのなら、男性である私がジャッジをやめようじゃないか

まず最初に、率直に言って、こういうことを言うのはやめてほしいです。ちょっと無責任なのではないかと正直感じます。

真剣に考えた結果としてこういう帰結なんだとおっしゃるのであれば、言わせて下さい。いまの日本語ディベートはいつも「人が足りない、もうこれ以上減ったらまずい」という話をしていますよね。心配事といえばいつもそれです。その中で、あなたは自分がやめることが最善の選択肢だと本当に考えているのですか。私はあなたがやめることが最善であるとは全く思いません。むしろ、真剣に考えた結果として辞めるという自己犠牲的な選択肢を選べるほどにディベートを愛しているのなら、コミュニティに残って、こういった問題に一緒に向き合ってほしいです。

自分が関わってきた好きな世界で実際に誰か苦しんでいる人がいる、そして自分だって苦しませている世界の構造を作る一部分を担っている。もしそうなのであれば、それはやめるとかではなくて、一緒にそれをどう変えていくのかと問いかけていけばいいのではないかと私は考えます。私が話を聞いた女性ディベーターたちだって、男性にやめてほしいとかそんな事を言っていたわけではありません(もちろん言っていないだけであって、そう思っていた可能性は否定できませんが、そのようなことを考えているようには私には見えませんでした)。

ただ、もちろん、趣味のディベートだから放っておいてくれと言われたらそれまでです。しかし私はあなたに残ってほしいです。

 

*1:大会要項はこちら https://japan-debate-association.org/wp-content/uploads/2020/11/yoko_f23HP.pdf

*2:k aff(クリティカルアファーマティブ)をはじめとしたクリティークについて、下記に詳しい説明があります。

canalundayo.hatenablog.com

今回の場合は端的に言えば下記のようなことをk affという形で論じました:

「真に議論すべきtopicは日本の政治参加における女性抑圧であって、クォーター制というresolutionに固執することはtopicを見えなくしてしまう。我々はtopicを、もっと言えばいまディベート界でこの瞬間に目の前で起きている女性抑圧を議論すべきだ。それができなかったら、ディベートをやっている意味なんてないでしょ」

*3:European University Debating Championships

*4:World University Debating Championship

*5:2225チームの35062個のスピーカーポイント

*6:policy debateを一般の人にも聞きやすくしたようなイメージのディベート。準備型ではあるものの、論題は1ヶ月ごとに変わり、その時の世相を反映したテーマも多いようです。百聞は一見にしかずということで、動画は2018年のアメリカ大会決勝です

www.youtube.com

*7:元論文はキャッシュで読めます

*8:下記書籍に収録されています

www.routledge.com

*9:各団体の名簿はこちらで確認できます

 

*10:斜体文字は筆者補足。また、よほど人物が特定されそうな情報については消去済み。その場合も本人の了承は得た形で行っています

*11:

*12:ジャッジは教育的な存在だというのは当然のことでしょうが、例えばRoger E. Solt (University of Kentucky) “Demystifying the Critique”で論じられています

“The judgments we come to at the end of debate rounds may only be provisional, based on the evidence and arguments in that round, but overtime the sum of our provisional judgments is what ultimately constitutes our moral and political belief system. Policy debates are important. As citizens in a democracy, we have individually small but collectively large inputs into the policies our government chooses.”

*13:余談ですが、私が今回のJDA大会で出した女性の少なさを問題提起するk affを受けて「すごく政治的なテーマでディベートをするのは避けたい」といった旨の発言をしている方がいました。どのようなテーマであっても、政策の話をする以上、政治的でないものなど存在しないだろうことをここに付記しておきます

*14:

Despite these reservations, I advocate for debate and speech as robust forms of civic education, as long as educators attend to the way in which debate and speech are sexed/gendered and to how women in debate and speech can challenge forms of sex/gender that hinder diverse women's civic engagement. Debate and speech can be transformative for women's civic education because they (provisionally) free women from the social constraints of performing womanhood in the form of a pure, pious, domestic, and submissive (often manifested as silent) femininity. The term women debaters need not be an oxymoron. I also advocate for the profound way in which women are transformative for debate and speech. Should we ever achieve parity in participation along sex/gender (and race) lines, then we will also have profoundly affected the forms and functions of debate and speech. Women's social location allows us to see -- and Critique -- the elements of debate that hinder its liberatory and educational potential.

*15:日本ディベートの男女比率を調査したMorookaの論文でも、原因のさらなる調査が必要だと述べられています

*16:

*17:J. Cinder Griffin and Holly Jane Raider. “Women in High School Debate”
Punishment Paradigms : Pros and Cons 1989.
http://groups.wfu.edu/debate/MiscSites/DRGArticles/Griffin&Raider1989PunishmentPar.htm

*18:

Socially inculcated values contribute to low rates of female entry in high school debate. Gender bias and its relation to debate has been studied by Manchester and Freidly. They conclude, males are adhering to sex-role stereotypes and sex-role expectations when they participate in debate because it is perceived as a masculine activity. Female debate participants experience more gender-related barriers because they are not adhering to sex-role stereotypes and sex-role expectations. In short, "nice girls" do not compete against or with men, are not assertive, and are not expected to engage in policy discourse, particularly relating to military issues. Rather, "nice girls" should be cheerleaders, join foreign language clubs, or perhaps participate in student government.

*19:

*20:

One notable characteristic of competitive debate in Japan adds an interesting twist to gender dynamics within the Japanese debate community: the longstanding popularity of English debate. As Nagatomo (2016) noted, the Japanese often view English as a key skill for women's career advancement and personal development in Japan. Because learning English is highly popular among female students both as a field of study and a foreign language, the role of gender in Japan may differ from its global counterparts. This study thus provides unique insights into the relationship between gender and competitive equity in debate.

*21:Nagatomo, D. W. (2016). Identity, gender, and teaching English in Japan. Buffalo, NY: Multilingual
Matters.

*22:

Structural barriers endemic to the forensics community dissuade female ninth graders from entering the activity.6 Recruitment procedures and initial exposure may unintentionally create a first impression of the activity as dominated by men. By and large, it is a male debater or a male debate coach that will discuss the activity with new students for the first time. Additionally, most debate coaches are men. This reinforces a socially proven norm to prospective debaters, that debate is an activity controlled by men. This male exposure contributes to a second barrier to participation. Parents are more likely to let a son go on an overnight than they are a daughter, particularly when the coach is male and the squad is mostly male. This may be a concern even when the coach is a trusted member of the community. While entry barriers are formidable, female attrition rates effect the number of women in the activity most significantly. Rates of attrition are largely related to the level of success. Given the time and money commitment involved in debate, if one is not winning one quits debating. The problem is isolating the factors that contribute to the early failure of women debaters. Even if equal numbers of males and females enter at the novice level, the female perception of debate as a whole is not based on the gender proportions of her immediate peer group. Rather, she looks to the composition of debaters across divisions. This may be easily understood if one considers the traditional structures of novice debate. Often it is the varsity debate team, composed mostly of males, who coach and judge novice. Novices also learn how to debate by watching debates. Thus, the role models will be those individuals already involved in the activity and entrenched in its values.

*23:

The importance of female role models and mentors should not be underestimated. There is a proven correlation between the number of female participants and the number of female coaches and judges.8 The presence of female mentors and role models may not only help attract women to the activity, but will significantly temper the attrition rate of female debaters. Novice, female debaters have few role models and, consequently, are more likely to drop out than their male counterparts; resulting in an unending cycle of female attrition in high school debate.

*24:本文中のリンクはr/debateでの投稿ですが、同じ投稿をr/policydebateでも実施しています。policydebateでは多くの回答を得るに至りませんでしたが、せっかくなのでリンクを貼っておきます

*25:W.IN Debateの主催する2020年の大会の詳細がこちらにあります。あちらも時代はdiscordのようです

*26:これは岸政彦らをはじめとする質的調査の専門家が度々議論を繰り広げています。興味のある方は例えば「マンゴーと手榴弾」を参照してください

*27:本稿のテーマから考えたときに本質的ではない話なのですが、私が大会で実施したk affが一部で「代弁者クリティーク」と呼ばれています。その名称はチームとしては全く意識していなかったものです。なぜなら記事本文中でも述べているように我々は「代弁」したのではなく、「当事者」として自分たちの考えを伝えたつもりだからです。おそらく試合の中で女性ディベーターの声を紹介する際に、「代弁します」という言い方をしたことがきっかけかと思います。インタビューで聞かせて頂いた声を、スクリプトに書き起こし、それを読み上げる行為は代弁です。しかし、我々はそういった代弁を通し、最後は自分たちの主張をしたのです。実際、インタビューをさせて頂いた方々は試合で声を紹介することは承諾しては下さったものの、試合でこういう主張をしてくださいといった依頼は我々に一切していません。そういう意味で、我々は「代弁」をしたのではなく、我々自身の「主張」をしたのだと思っています

*28:この点については実はリベラルフェミニストと呼ばれる方々とラディカルフェミニストと呼ばれる方々とで考え方が違う場合があるため、カッコつきでリベラルと記しておきました

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*30:

*31:下記書籍P120-121

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